TBS久保田智子さん40代で養子縁組して母に。「生みの親」のことを娘に伝えたら?|VERY
元TBSアナウンサーで、現在は同局の報道記者として活躍する久保田智子さんは2019年に特別養子縁組制度で女の子を迎え、一児の母となりました。ご自身の不妊の事実を知ってからお子さんを迎えるまでの心境の変化、そして初監督を務めた映画『私の家族』(3月15日公開)にも描かれた、現在の親子の姿をお聞きしました。 【写真あり】養子縁組で迎えた娘さん...現在の姿
「子どもをもつこと」に執着していた20代
──20代のころ、不妊症で子どもを産むことが難しいと知った久保田さん。「家族」や「子ども」という存在に対する当時の考えを改めてお聞かせください。 今振り返ると、子どもができないからこそ「子どものいる家庭をもつこと」に憧れ、執着にも似た思いを持っていたと思います。結婚する前は、どうしたら母になれるのだろうと思いつめ、子どもがいなければこの先、自分には生きている意味がないと考えることさえありました。 その後、夫と結婚することになったときには、はじめに不妊の事実を伝えました。すると、「二人で一緒に考えていこう」と言ってくれたんです。子どもを産めるかどうかが結婚の条件ではない。ありのままの自分でいいんだと思えました。あんなに執着していた子どもについても、一緒に考えたいという夫の気持ちに触れ、なぜ子どもがほしいのだろう、2人きりの人生もある、などと自分の中の凝り固まった考えが溶けていったような気がしました。
赤ちゃんのころの娘と(映画『私の家族』より) ──その後、特別養子縁組制度を選択されました。養子縁組を決意したときのことや、お子さんを迎えるにあたってのお気持ちや考えを教えてください。 特別養子縁組という制度を知り、「こういう方法もあったのか」と新たな希望がもてました。お互いの思い、認識にずれがないかを夫と何度も話し合い、子どもが産めない私たちも、「子どもを迎え、育てたい」という思いが一致。制度を使って子どもを育てることを決めました。 いざ子どもを迎えるに当たって、まだ見えないものに対する不安や、血のつながらない子を本当に愛せるだろうかという不安は確かにありました。しかし、私たちにとって特別養子縁組をすることは、「自分が産む」ということと近い感覚だったのだと思います。妊娠・出産を経たとしても、生まれる子どもを選べないのは当然です。どんな子でも責任と愛情をもって育てようと考えていました。