『GTOリバイバル』“時代遅れ”だからこそ現代性を獲得 国内ドラマの可能性を広げた一作に
1990~2000年代のフジテレビドラマのリバイバルはさらに増加?
元々、『GTO』は暴走族出身の鬼塚が高校生たちと向き合うジェネレーションギャップが描かれた学園ドラマだった。一見真面目な優等生に見えるが裏で陰湿なイジメや援助交際をおこない、親や教師には理解不能な怪物に見えている生徒に対し、鬼塚は元不良の行動力と友達のような距離の詰め方で生徒たちと向き合っていく。そして、そんな鬼塚の姿を見て、事勿れ主義だった同僚の教師たちが目覚めていく姿が作品の見どころだった。 この構造は『GTOリバイバル』でも踏襲されている。鬼塚が老いたことで、生徒たちとのジェネレーションギャップはさらに強調されており、鬼塚の時代遅れ感はより際立っている。しかしどれだけ時代からズレようと鬼塚の魅力は変わらない。生徒のことを一番に考え、社会的規範を逸脱した行動も躊躇なく選択できてしまう鬼塚のめちゃくちゃさは「若さ」という後ろ盾がないからこそ、より輝いて見える。 鬼塚の古さが逆に武器になっていることが『GTO』の面白さだったが、古さを認めることで掬い上げることができる普遍性が存在するのだと、本作を観て改めて実感した。 2022年に劇場映画となった『Dr.コトー診療所』や、12年ぶりに新プロジェクトが始動することが報じられた『踊る大捜査線』など、過去にフジテレビ系で放送された人気ドラマの続編が作られる機会が増えている。 90~00年代のフジテレビのドラマは時代のトレンドを踏まえたポップなエンタメ作品が多いため続編が作られるのは当然だと言える。しかし、ヒットしたテレビドラマは作品が作られた時代の空気が色濃く反映されてしまうため、時代の空気が変わると途端に古臭いものに変わってしまう。そのため、新しさと古さ、どちらに軸足があるのかわからない迷走した続編も少なくない。 対して『Dr.コトー診療所』は、ドラマ放送時は若かった出演俳優が年齢を重ねた姿で登場し、昔は成立した英雄的振る舞いは時代遅れだと批判される場面を徹底的に描くことによって、逆説的に現代性を掴み取ることに成功していた。 おそらく『踊る大捜査線』の新作は、老いた室井慎次(柳葉敏郎)の姿が描かれることになるのだろうと思うのだが、古い時代の生き方を貫く主人公が現代と衝突する姿をうまく描くことができれば、『GTOリバイバル』のように「古さゆえ」に意味のある作品に仕上がるのではないかと思う。 若い時に観ていたヒーローが老いて時代遅れになっている姿を見るのは心苦しいものがあるが、だからこそできることもあるのだと『GTOリバイバル』は教えてくれた。本作の流れを引き継ぐ続編ものが増えることを期待したい。
成馬零一