回想おおさか夕刊紙 阪神淡路大震災を経て新大阪休刊へ
回想おおさか夕刊紙 阪神淡路大震災を経て新大阪休刊へ THEPAGE大阪
阪神淡路大震災が起きた1995年1月17日、大阪市西区に本社を構える新大阪新聞も被災した。人員が集まらない中、大幅に遅れながらもなんとか新聞を作り終えた。しかし、阪神間に住む編集局員は通勤もままならない。陣容が整わないままの変則的な新聞製作を余儀なくされた末、まもなく業績低迷から休刊が決まった。
自転車を漕いで新聞社を目指す
早朝5時46分、経験したことのない激しい揺れに襲われたとき、筆者は洗面台に向かって歯を磨いていた。自宅は大阪市東部の団地8階だ。這うようにして玄関へ辿り着き、ドアを開けて退路を確保。あと数秒揺れが続いたら団地が倒れるかもしれないと覚悟しかけたとき、ようやく揺れは治まった。 「夕刊紙」という名称からは夜のイメージが色濃く漂っているしれないが、夕刊紙記者の朝は、意外と早い。とくに編集局長を拝命してからは、5時過ぎには起き出しては、全国紙2紙、スポーツ紙1紙に目を通すのが日課になっていた。ありていにいえば、当日紙面のネタ探しだ。 夕刊紙は1面のトップ記事を派手な見出しで競い合う。しかし、1月はプロ球界などの動きが少なく、ネタは冬枯れ状態。新大阪新聞は小さな組織なので、編集局長が1面のデスク兼ライターを務める。競馬などの専門記事以外は、ネタが薄いときでも自身で材料をかき集めて、原稿をまとめあげるのが定石になっていた。新聞各紙を読み終えて、「きょうもしんどいわ」とぼやいていた矢先、ぐらぐらときた。 テレビから流れる「神戸で火災」などの断片情報を聞きながら、すぐに身支度を整え、地下鉄の最寄り駅へ。いったんは停車中の車両に乗り込んだものの、運転再開の見込みは立たないという。駅を飛び出し、自転車で新聞社へ向かうことにした。
いつものカラー印刷ではなくモノクロ印刷で発行
自転車を漕ぐ。余震が続く。信号機がゆさゆさ揺れ、オフィスビルがざわざわと鳴る。新聞社に到着すると、すでに数人の社員が出社していた。社屋はまだ新しい。印刷を他社に頼る時代が長かった新大阪新聞にとって、ようやく建設した悲願の一貫印刷工場だった。 しかし、印刷局関係者らと協議したところ、通常の大判12ページ構成、一部カラー印刷では印刷がむずかしいことが判明。モノクロ8ページ構成に切り替えてようやく降版に持ち込み、輪転機を回した。 8ページのうち、1面と社会面、終面の3ページを震災特集面に。1面の見出しは「神戸震度6烈震」「関西を地震直撃」「死者多数」とある。この時点では情報が少なく、「死者多数」としか報道できなかった。 落下した外壁や窓ガラスが散乱するビジネス街の通勤路。水道管が破裂し水道水が地上に噴き上げた交差点。大阪市内の被災現場の写真を数点掲載した。新聞社に程近いキリスト教会も、レンガ造りの聖堂が半壊。端正な近代建築の無残な姿が、衝撃の深さを伝えている。