美輪明宏『ヨイトマケの唄』コミックソングと笑われた過去も…発売から47年後に紅白初出場を決めた、魂を揺さぶる「エンヤコーラ」
1965年の7月に発売された美輪明宏の名曲『ヨイトマケの唄』。当時の「日雇い労働者」について歌ったこの曲は、一時期放送禁止歌として民放のテレビなどでは放送されなかったこともある。しかし、この曲は美輪明宏にとってとても大切な曲となっている。いったいなぜか…その逸話を紹介する。 【画像】作家・三島由紀夫に「天上界の美」と絶賛された美輪明宏
世間からバッシングを受け、姿を消した丸山明宏
シャンソン歌手である美輪明宏(当時は丸山明宏)は、1957年にデビュー・シングル『メケ・メケ』をヒットさせてスターになった。さらに作家の三島由紀夫が「天上界の美」と絶賛したこともあって、一躍マスコミの寵児となった。 だが、同性愛者であることを隠さなかったために、まだ理解の薄かった世間からバッシングを受け、その後はマスコミからも締め出されて、一旦は忘れられた状態になってしまう。 しかし、ここからが本当の始まりだった。 1963年秋、東京・大手町のサンケイホールで開催された、全曲自作自演で構成した『丸山明宏リサイタル』で見事にカムバックを飾ると、1965年には『ヨイトマケの唄』をヒットさせて完全復活したのだ。 実は『ヨイトマケの唄』を作った当時は、すぐに人前で歌うことはなかったという。 しばらく経って、自宅で開いたささやかな誕生日パーティーの場で、初めて弾き語りした。すると、集まっていた親しい友人たちは口々にこう言った。 「どうして今まで歌わなかったの? こんないい歌もっといろんな所で歌って、大勢の人達に聴かせてあげなきゃ駄目じゃないの!」 言われた通りにシャンソン喫茶で披露した。冒頭の田舎っぽい掛け声に、観客はコミックソングと思って笑い出した。 ところが歌い進めるうちに、人々の表情は変わっていき、最後にもう一度、冒頭と同じ掛け声をくり返した時には、笑いとは反対に涙に変わっていた。 その後、丸山明宏は、寺山修司が手がけたアングラ芝居『青森県のせむし男』や『毛皮のマリー』に出演するなど、歳月をかけて表現の領域を広げながら成長していった。 そして1968年4月からは三島由紀夫のたっての願いで、渋谷・東横劇場の『黒蜥蜴』に女形として主演することになった。 大ホールの1か月公演ともなれば、たくさんのスタッフが関わるので準備期間は長くなる。しばらくの間、活動の主軸を音楽から演劇に移さなければならないと考えたのは、表現者としての自分を追求して磨き上げていく機会だと、冷静に判断したからだ。 そこで歌手として区切りをつけるために、1968年2月に『第八回 丸山明宏リサイタル』を開催した。