日本社会で幼稚な主張が「正論」だと人気を集めている「深刻すぎる現実」
玉川徹、西野亮廣、ガーシー、吉村洋文、山本太郎――時に大衆を熱狂させ、時に炎上の的になるメディアの寵児たちから、なぜ目が離せないのか? 【写真】人生で「成功する人」と「失敗する人」の大きな違い 注目の新刊『「嫌われ者」の正体 日本のトリックスター』では、彼らは何者なのか、その単純かつ幼稚な「正論」がもてはやされる日本社会の問題に迫る。 (本記事は、石戸諭『「嫌われ者」の正体 日本のトリックスター』から抜粋・再編集したものです) 一介の社員コメンテーターとしてスタートし、時に致命的な間違いを発信しながらも社会に確かな影響力を残した玉川徹──。 お笑い芸人から絵本作家に挑戦し、ファンとのビジネスコミュニティーを構築する一方で「信者ビジネス」だと批判を浴び続けている西野亮廣──。 YouTubeでの暴露を武器に、一部の熱烈な支持者からの期待を集めて参議院議員にまで上り詰めたガーシー──。 政界とのつながりが過剰なまでにクローズアップされた「旧統一教会」──。 政党として着実に支持を伸ばしながら、評価より感情的な反応が先行する「維新の会」と吉村洋文──。 小ポピュリズム政党を率いる山本太郎──。 本書『「嫌われ者」の正体』は彼らを巡る動きを一貫して一つの「社会現象」として位置付けている。彼らは一体何者なのか? その存在は何を意味しているのか。見えてくるのは社会を変えた夢の技術としてのインターネットの終焉と幼稚化する日本社会の姿である。ここに私がのめり込んだ理由がある。私は自分が抱えてきた疑問と彼らの現象を重ね合わせて取材レポートを書いていたのだ。 私が記者として仕事を重ねてきた2010年代はインターネットの夢が高らかに語られた時代だった。これまで既得権益を独占してきたマスメディアに取って代わり、ツイッター(現在はX)やフェイスブックといったSNSが新たな公共的議論の場になっていくという夢はいよいよ現実のものになっていくと思われた。しかし、現実的にはそうはならなかった。 2020年代の幕開けは間違いなく新型コロナ禍である。専門家の度重なる自粛の要請、繰り返された緊急事態宣言という政治決定、営業の自由にかけられた極端な社会制限と争点はあったが今となってはすべてが忘れられている。国内に限っても東京オリンピックの開催、安倍晋三元首相の銃撃事件と国葬、旧統一教会問題、旧ジャニーズ事務所の問題……といった社会を二分するような大きな問題が年に一度は起こるたびに、感情的な言葉の応酬が始まり、亀裂が深まっていき、やがて忘れられていくという光景を私たちは繰り返し見てきたはずだ。やや範囲を限定すれば、リベラル、保守問わず党派性の違いによる亀裂はもはや修復不能としか言いようがない状況になっている。 党派性が程度の低い"論破"を呼び寄せる。政治的な立場を問わず論客たちがインターネットを主戦場にして、いかに相手の主張がおかしく、"私たち"が正しいか、"私たち"の正論を主張する場面をたびたび目にするようになった。そこに多くの人々が吸い寄せられるようにして、何かを叩き続ける。今の極北は信念もなくただその場で勝てばいいという態度の横行だ。 新型コロナの流行がはじまってしばらく経ってからも頑強に「ゼロコロナを目指すべし」、現実的な対策をまったく無視して「東京オリンピックを中止せよ」、「旧統一教会 が自民党をマインドコントロールしている」……。そんな主張が広がった。 ゼロコロナが破綻することは極端なまでのゼロコロナ政策を維持し続けた中国政府が見事なまでに証明してくれた。中国のような超がつくほどの管理社会であっても維持しきれなかった。これ以上、抑圧的な体制でなければ達成できない政策などダークファンタジーの世界でしかない。結果的に東京オリンピックは、一部ではあったが感染症対策の専門家が徹底的な管理をしたことで無事に運営することができた。 旧統一教会に至っては自民党からあっさりと切られ、過去の判例を超えた形で解散命令請求が出されることになった。彼らが多くの問題を抱えているのは事実である。とりわけ信仰の名のもとに進んだ人権侵害に目を背けることはあってはならないことだが、本当に自民党をコントロールしているのならば教団がもっとも窮地に陥ったときこそ政治的な影響力を発揮して然るべきだが、政治的にはまったくといっていいくらい結果を残せない弱い集団だった。 いずれもさしたる根拠もなかった荒唐無稽かつ社会を単純化している幼稚な主張だが、「これぞ正論」とSNSでも一定の支持を集めたことを忘れてはいけない。こうした支持者の間に"私たち"以外の考えを受け止める余裕は一切感じられなかった。SNSは単に「今」を可視化したツールに過ぎなかったはずだ。今、何を考えている、どこにいる、誰といるといったことをリアルタイムで流すだけのものだった。常に流れていくタイムラインの中で、今は一瞬で過去になる。ここで公共的な議論や合意形成ができるといったこと自体が壮大な夢であり、夢と現実は往々にしてイコールで結ばれないものだ。 「《自分たちは絶対善の正しい存在、相手は絶対悪》という思考こそがカルト的な思考」と語ったのは本書『「嫌われ者」の正体』に登場するカルト宗教団体に対峙する宗教家だったが、絶対的な解を示すカルト的思考と、インターネット上に蔓延する論破を喜ぶ思想はその幼稚性においてとても似通っている。現実と法を踏まえて政治的な妥協を繰り返しながら解決策を探っていく大人の知恵は後退し、より強く自身の主張を貫き、妥協を許すことなく、威勢の良い──その立場における──正論をぶちかますことだけに注力する幼稚な社会が今の日本だ。 本書『「嫌われ者」の正体』で取り上げる人物の存在は時に時々の社会問題と共鳴しながら、日本社会に蔓延する幼稚性が露わになっていく現状を映し出す。単純かつ幼稚な「正論」ばかりがもてはやされる限り、メディア環境は不健全なままだ。 健全な大人の知恵を取り戻すことが私だけでできるとは思えないが、さしあたり私はわかりにくい彼らの存在を考えるためにシンプルな取材を試みることにした。登場する人物に直接、話を聞くことを軸にするオーソドックスな方法だけでなく、本人の取材が難しかった場合は周囲の証言を積み上げることで彫刻のようにその人が浮き彫りになる方法を採用したレポートもある。何を当たり前のことを、と思うかもしれないが、当たり前の取材を積み上げれば積み上げるほど単純化した結論には辿り着けないと思い知らされるからだ。 取材の長所はお互いに顔を合わせ(対面が叶わない場合はオンライン上であっても)、時間をかけて言葉を交わすことそれ自体に宿る。その中で、異なる意見を持つ者であっても、生身の状態で質問や意見を交わしていくうちに、お互いの違いだけでなく一致点であったり、似通ったりした点を見つけていく。一致点があるからこそ、人間は違いを認めることができる。違いを認め、互いに一定の敬意を払った先にしか多様性は生まれない。陣営にわかれ、攻撃的な言葉を投げつけ合う空間では、幼稚な知性から成長することは絶対にできない。 賛否が激しくぶつかり合う彼らの取材はどれ一つとっても簡単なものはなかったが、安易な賛意とも、幼稚な否定とも違う、存在する意味を描き出すという一点は私の中で一貫している。 あらためて主張しておこう。この一冊に幼稚な極論ばかりが蔓延る日本社会が見えてくる、と。
石戸 諭(記者・ノンフィクションライター)