ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版 (36) 外山脩
することなすこと……
これも一九一一年。 数家族の旅順丸移民が、国営のモンソン植民地に入植した。ここは二年前に奥ソロカバナ線のセルケーラ・セーザル(サンパウロ州中南部)の近くに造られ、分譲中であった。それに目をつけた鈴木南樹が、日本移民も受け入れるよう植民地側と交渉、了解をとりつけ、斡旋したのである。 この頃、南樹や香山六郎は、たまにファゼンダ・グァタパラからサンパウロへ出てくる平野運平に会うと、しきりに植民地建設の夢を語っていた。が、具体化の策はなく、南樹はモンソン植民地の利用を思いついたのである。 もっとも斡旋料稼ぎも兼ねてのことで──香山六郎の回想録によると──南樹は入植家族から、それを前金で受け取っていた。ところが、賭事に注ぎこんですってしまい、仕事の方もスッポカシテしまった。 笠戸丸移民の失敗で狂った心のバランスは、さらにひどいモノになっていたのだろう。スッポカサレタ人々が、どうしたかについては伝わっていないが、ともかく植民地へ入ることは入ったようだ。 入植の世話といえば、この数年後、南樹はアマゾンにある国営の植民地へ、サンパウロ方面から邦人を送り込もうとしたことがある。が、これは、ペトロポリスの日本公使館の干渉で潰されてしまった。「アマゾンは日本人には、保健上、危険地帯だ」と。 やることなすこと上手く行かず、最悪であった。 その頃、三浦鑿(一章で登場)の誘いで、リオの海岸で、沈没船の積荷の運びだしという、荷主の許可をとったかどうか分からぬ怪しげな仕事をしている。 もっとも南樹が一人でいた時、本物の盗賊が現れ、拳銃をつきつけ、獲物を横取りして行った。
青柳郁太郎
一九一二(明45)年、この国に於ける日本人の植民史上、画期的な出来事があった。日本の実業家たちが組織した東京シンジケートという名の会社とサンパウロ州政府が、植民地建設計画を契約したのである。 この「シンジケート」は、当時の資料では「企業組合」と訳されている。 「英国の企業が、共同出資してブラジルで事業を起こす場合、まずシンジケートをロンドンでつくり…云々」という記述も資料類にある。 東京シンジートは、その種の前例に倣った命名であったろう。その代表者として契約をまとめ上げたのは、青柳郁太郎という人物であった。一年半ほど前に日本からきて、地方を旅行したり州政府と接触したりしていた。 もっとも、邦人社会には距離を置いていた。 契約の内容は、 「イグアッペで、州有地五万㌶のコンセッソンを、東京シンジケートが州政府から受け、植民地を建設、日本から移民を二千家族、導入する」 という壮大なものであった。 上塚周平の構想を、もっと具体的な形で進めていたわけだ。 イグアッペは、サンパウロ州南部、大西洋岸に位置する郡で、コンセッソンの五万㌶は一カ所ではなく、何カ所かの合計であった。その場所は逐次、選択することになっていた。 計画が発表されたのは三月である。これを上塚が、どう受け止めたかについては不明だが、南樹や香山、平野たちは複雑な気持ちであった。青柳から何の相談も挨拶も受けなかったのである。不快でもあり羨ましくもあった。後方から一陣の風が吹き込むように青柳が現れ、自分たちを抜き去り、遥か前方を駆けていたのだ。この感情を、香山六郎は後年、繰り返し「邦人社会には頬被りで……」と文字にしている。 青柳は年令的には水野、山県より若かったが、やはり江戸時代末の生まれで、この頃、四十代半ばであった。 ちなみに上塚、南樹は三十代半ば、平野と香山は二十代の末になっていた。