<震災3年>家も仕事も……原発事故に翻弄された一家
復興庁によると、2月26日現在、全国には約26万7000人の避難者がいます。福島県の避難者は約8万5000人ですが、東京電力・福島第一原発事故もあり、何度も避難先を変えるなど、生活は振り回されています。現在では、仮設住宅や見なし仮設、または自力再建などで落ち着いた生活を送る人たちもいます。その中で、今なお、生活再建がままならない一家が郡山市の仮設住宅にいます。
富岡町の母と郡山市の仮設で生活
福島県郡山市にある若宮前応急仮設住宅団地。そこに、妻と子ども2人の川端英隆さん(38)一家が生活しています。この仮設住宅は富岡町民が住む前提ですが、川端さん一家だけがいわき市民です。 2011年3月11日、川端さん一家はいわき市のアパートに住んでいました。地震と津波があったので翌日、富岡町の海沿いに住んでいる実母の安否確認に向かいました。国道6号線を北上すると、国交省の職員が立っていて、「この先は通行止め、いわき浪江線(6号線と平行している県道35号線)なら行ける」と説明を受けました。しかしそこも通行止め。なんとかして実家につくと、すでに津波に流されていました。 富岡町役場に行くと、説明のないまま、「車のある人は、郡山市か川内村に避難してください」と言われました。川端さんは直感で「母は川内村に行ったはずだ」と思い、向かいました。しかし見つかりません。そして一度いわき市の自宅に戻ってテレビをつけ、福島第一原発が爆発したことを知ったのです。 最終的には避難先の郡山市で実母と会うことができました。富岡町と川内村は、郡山市に避難したことで、ともに役場機能を郡山市に移しました。川内村は12年3月、行政機能を川内村へ戻しましたが、原発にほど近く、全町避難が続いている富岡町は帰還のめどが立っていません。
「一部損壊」で復興住宅に入れず
いわき市の川端さんが郡山の仮設住宅に住む理由は、自宅アパートが一部損壊の判定を受けたものの、家主が東京の人で修理が始まらなかったためです。川端さんは実母の面倒をみるという理由で、富岡町の仮設住宅に入ることにしました。しかし、災害復興住宅の入居条件は、自宅が半壊以上のため、応募することができません。仮設住宅がなくなった場合、どうすべきかを悩んでいます。 日常的な生活情報は、富岡町の仮設住宅のため、富岡町の情報が欲しいところですが、 川端さんはいわき市民。町から情報提供する義務がありません。町では各戸にタブレット端末を配布し、各種の行政情報を流しています。現在は届きましたが、川端さんには2年近く町の情報が入りませんでした。 「郡山市にしても富岡町にしても、『来てくれれば情報は開示しますよ』という感じです。役所に行かないとわからない。いわき市民という理由で何もない」。健康診断の情報も富岡町からは入りません。そのため自分でいわき市に電話し、詳細を調べなければなりません。初期の被曝の不安もあります。原発事故後、3歳の長女は当時8か月で母乳を飲んでいましたが、妻(34)の母乳検査はありません。中学3年生の長男(15)も屋外に出ていました。 「うちらの場合は、特別な扱い。うちらはいわき市民なので、検査もいわき市でやることになりますが、そこまで行く足がない。車が壊れてしまったのです。そのため、郡山でやろうと思っているのですが、あくまでも郡山市民が対象。うちらは後回しです。母乳検査は今はやっていますが、妻の母乳はもう出ません。そんなときにやると言われても……」 結局、長男は学校を通じて内部被曝検査を受けることができました。結果、「二次検査は必要ない」という判断でした。川端さんは「母乳の検査はなかった。当時がどうだったのかを知りたい」と言います。