負け戦の出撃…それでも疑問は湧かなかった 104歳の元整備兵が語った「最初の特攻」
連載「いま、特攻を考える」
瀬戸内海に臨む高松市に、「最初の特攻」を知る人物が健在だった。 旧海軍の整備兵だった多田野弘さん(104)。1943年7月、南太平洋のラバウル(パプアニューギニア)に配属された。当初は滑走路に零式艦上戦闘機(ゼロ戦)が100機以上並び、機体の下で仲間と談笑する余裕もあったが、次第に米軍の攻撃が強まった。 【写真】出撃する神風特別攻撃隊=1944年10月、フィリピン・マバラカットの飛行場 爆撃で空いた滑走路の穴を急いで埋め、戻ってきたゼロ戦に弾や燃料を入れて送り出す。「死が日常になった」。戦闘のたびに未帰還機が増え、熟練パイロットも減っていった。 「こちらの補充は少ないのに、相手は毎回同じ数でやって来る。やればやるだけ戦力差が開いた」 サイパン島、ペリリュー島へと後退を繰り返し、44年5月にフィリピンに赴いた。6月にはマリアナ沖海戦で空母機動部隊が壊滅状態となり、7月には絶対国防圏と定めたサイパンが陥落。20万の米軍が来襲する中で、「体当たり攻撃」を耳にした。 「負け戦を少しでも有利に終わらせるには、それ以外にないと思った」。疑問は湧かなかった。 ■ 44年10月20日、フィリピン・マバラカットの基地で「神風(しんぷう)特別攻撃隊」が編成された。出撃の日。「総員整列」の命令で多田野さんも滑走路に並んだ。特攻隊員たちは水杯を飲み干し、地面にたたきつける。目の前を滑走していくゼロ戦を、帽子を振って見送った。 「今でも昨日のことのように覚えている。死にに行くのに、みな晴れ晴れとした顔をしとった」 戦力が弱るにつれ、戦争指導者たちは「一撃講和」に望みをかけるようになる。当時の小磯国昭首相が戦後にその意図を回想している。≪今度会戦が起(おこ)りましたならばそこに一切の力を傾倒して一ぺん丈(だけ)でもいいから勝とうじゃないか。勝ったところで手を打とう、勝った余勢を駆って講和すれば条件は必ず幾(いく)らか軽く有利になる訳だと思ったのです≫(GHQ歴史課陳述録) 特攻は、その足掛かりと期待された。 ■ 特攻隊戦没者慰霊顕彰会によると、45年1月まで続いたフィリピンでの特攻で旧日本軍は計535の航空機を失った。米国側の損害は空母撃沈2、撃破18など。局面を変えることはできなかったものの、一定の戦果が上がったことで、限定的だったはずの作戦は広がりを見せる。 日本に迫る米軍を迎え撃ち、今度こそ講和の機会をつかもうと、九州を出撃基地に「全軍特攻」の準備が進められていく。 「続けても、勝てるとは思わなかった」。そう感じて本土に戻った多田野さんを待っていたのは、大型爆弾に翼と操縦席を付けた特攻兵器「桜花」の護衛機の整備業務だった。 一方で、当時の新聞は、フィリピンでの戦果を隊員たちの美談とともに過大に報じ続けた。西日本新聞も≪肉弾捲起(まきおこ)す勝利の神風≫≪尊くも崇高なる魂≫などと伝えている。 特攻は国民に感動をもたらし、いつしかその目的を変容させていく。 (久知邦) ◆ ◆ 44年10月に始まった特攻作戦。80年がたった今なお人々の心を揺さぶるのはなぜなのか。体験者の証言などから考える。