科学者がついつい陥る「一流国際学術雑誌掲載」という手段が目的化してしまう罠
なぜ組織の上層部ほど無能だらけになるのか? 張り紙が増えると事故も増える理由とは? 飲み残しを放置する夫は経営が下手? 10万部突破のベストセラー『世界は経営でできている』では、東京大学史上初の経営学博士が「人生がうまくいかない理由」を、日常・人生にころがる「経営の失敗」に見ていく。 【写真】人生で「成功する人」と「失敗する人」の大きな違い ※本記事は岩尾俊兵『世界は経営でできている』から抜粋・編集したものです。
仮面の告発:科学者が陥るランキング至上主義の病
科学者への矛盾した要求は、科学行政と科学者とのイタチごっことなり、成果ではなく悲劇を生むことになる。科学行政は短期利益を追求するあまり、本来の目的である科学発展という長期利益を犠牲にしてしまっているのである。 科学者自身もまた、経営の失敗によってさまざまな悲喜劇を演じる。 たとえば、科学者はときおり科学の目的を忘れてしまうことがある。普段、落ち着いた状況で、「科学の目的は何か」ときかれれば、多くの科学者は「真理の追究」「面白さの発見」などと答えるだろう。しかし、実際の研究活動では、しばしばただの手段であるはずの「一流国際学術雑誌への掲載」が究極の目的と取り違えられる。 特に、研究成果への客観的な評価が比較的なされやすい数学・物理学といった分野から遠ざかれば遠ざかるほど、この傾向は強まるといってよい。社会科学はその典型だろう。 もちろん、研究分野ごとの一流国際学術雑誌と呼称されるような雑誌は、それ相応の評価を受けるだけの実績がある。そして、そうした雑誌において研究を発表することは、世界中の研究者間での議論を喚起するという意味で、科学における発見を共有する手段として優れているのは間違いない。 しかし、繰り返すが、一流国際学術雑誌というのは、単なる科学コミュニケーションの一経路であり、手段に過ぎない。 仮に既存の常識を一新する科学上の発見があったとする。こういった種類の発見は現時点での一流国際学術雑誌の編集者・査読者(審査員)の常識からも逸脱している場合がある。 当然ながら、その場合、こうした研究は、「常識から外れている」ことを理由に掲載拒絶されるリスクがある(実際には、査読審査の過程で、編集者・査読者の常識を変えてしまえることもあるのだが)。 科学者の中には、こういったリスクがあるからといってせっかくの科学上の大発見をお蔵入りさせるか、最初からこうしたリスクを取らないことを選ぶ人もいる。 こうした非コペルニクス的科学者が「いつかコペルニクス的転回を起こすような研究をしたい」と言っていたりするから不思議である。一度、天動説と地動説の歴史についてざっと勉強すれば、非コペルニクス的科学者たちは赤面するだろう(正直に告白するが、私も博士課程の学生のうちは典型的な非コペルニクス的研究者だった)。 非コペルニクス的科学者は、非コペルニクス的態度が極致に達すると、一流国際学術雑誌掲載のために参考書を購入し、一流国際学術雑誌掲載者を講師に招く予備校的イベントを企画して勉学に励みだす(私にもそうした「傾向と対策」的勉強に熱心だった時期もある)。 これではまるで大学受験のやり直しだ。 学術雑誌にランキングをつけ、ランキングを左右する「インパクト・ファクター(掲載論文の平均引用数を示す格付け指標)」「h指標(h回引用された論文がh本以上あることを示す格付け指標)」といった数値の変動に一喜一憂するところも、偏差値至上主義的な大学受験そっくりだ。 青春のすべてを捧げた大学受験を思い出すのかもしれないが、非コペルニクス的科学者は、研究そのものよりもランキングの高い学術雑誌への論文掲載を重視し、自分の論文が掲載された学術雑誌の現在のランキングを毎日のように確認する。 読者の方は冗談だと思われるだろうが、こうした本末転倒の喜劇は実際に起こっている。 つづく「老後の人生を「成功する人」と「失敗する人」の意外な違い」では、なぜ定年後の人生で「大きな差」が出てしまうのか、なぜ老後の人生を幸せに過ごすには「経営思考」が必要なのか、深く掘り下げる。
岩尾 俊兵(慶應義塾大学商学部准教授)