徳川家康による“対豊臣”の巧妙な布石 「慶長の築城ラッシュ」で注目したい城トップ3
関ヶ原の戦いは「天下分け目の戦い」とも言われるが、そこで決着がついたわけではない。徳川家康は豊臣家との争いを視野に入れて、巧妙に布石を打っていた。そのひとつとも言えるのが、対豊臣を念頭に置いた築城である。慶長年間に数多くの城が大規模な改修・築城によって生まれた経緯と、そこで注目すべき城トップ3を解説する。 ■新たな戦いに備えた慶長期の築城 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにより、徳川家康の直轄領はおよそ400万石となった。それまでの家康の所領は250万石であったといわれているから、150万石も増えたことになる。圧倒的な石高(こくだか)を有することにより、家康は絶対的な権力を握ることができたのだった。 とはいえ、このときの家康は、豊臣政権における大老の一人にすぎない。豊臣秀吉の遺児である豊臣秀頼は、関ヶ原の戦いの直前まで220万石の所領があったとされるが、戦後には、戦功のあった大名への恩賞という形で削られ、居城の大坂城を中心に摂津・河内・和泉の3か国65万石になっていた。それでも、成人すれば関白への任官も約束されており、家康は、秀頼が豊臣恩顧の大名と結んで勢威を強めることを警戒していたのである。 歴史的な結果を知っている現代人からすれば、関ヶ原の戦いですべての決着がついたと考えがちであるが、これは結果論に過ぎない。当時の大名は、再び戦乱になることも想定していたのだろう。関ヶ原の戦い後の慶長年間に多くの城が築かれているため、これを「慶長の築城ラッシュ」などと呼ぶ。実際、現代に残る近世城郭は、圧倒的にこの「慶長の築城ラッシュ」で築かれたものが多い。 このときに、城を築いたのは、家康も同様である。特に家康は、譜代の大名だけでなく、外様の大名をも築城工事に動員していた。こうした工事のことを「天下普請(てんかぶしん)」という。なぜ家康が、このような天下普請という方法で城を築いたのかといえば、豊臣秀頼の大坂城を牽制するためである。 ■対豊臣を見据えて築城された3つの名城 家康が「慶長の築城ラッシュ」の時代に天下普請で築いた城は多い。そのなかで、トップ3を選ぶとしたら、江戸城・駿府城・名古屋城となろう。もし、秀頼と、それに呼応した豊臣恩顧の大名が関東に攻めてくるときには、この3城で防ぐつもりだったのである。 家康は、豊臣恩顧の大名に対し、あえてこの3城の天下普請を命じていた。こうした天下普請は、諸大名の経済力を軽減させる目的があったといわれることもある。しかし、豊臣恩顧の大名に普請を命じることで、主従関係を明確にさせる意図があったことも忘れてはならない。 名古屋城の天下普請に駆り出された福島正則が「江戸・駿府は天下の重鎮なればさもあるべし、名古屋は庶子の住居なり」(『徳川実紀』)と不満を述べたというのは有名な話である。要するに、家康の居城であった江戸城・駿府城はともかく、家康の子の城である名古屋城の築城に駆り出されることは不満だというのである。それは、福島正則が家康に服属していることを示すことになるから、不満に思うのは当然だった。福島正則を宥めたという加藤清正も、同じ考えだったろう。家康は、こうした不満が豊臣恩顧の大名にあることを承知のうえで、意図的に天下普請を命じたのである。 江戸城は、天正18年(1590)に家康が関東に入封してから、その居城となっていた。関ヶ原の戦い後、慶長8年(1603)に征夷大将軍に任官すると、江戸城を天下普請により大幅に改修している。70家ほどの大名が参加した天下普請により、天守と石垣を擁する近世城郭として大幅に改修された。ちなみに、家康時代の天守については、絵画資料が残されていないため、詳しいことはわからない。こののち、2代将軍・徳川秀忠、3代将軍・徳川家光によって建て替えられ、明暦 3年(1657)の大火で焼失してからは再建されていない。明治維新後、江戸が東京に改められると、江戸城は東京城、皇城、宮城などと呼ばれ、現在は皇居となっている。 駿府城の駿府は、駿河府中の略である。天正14年(1586)から家康が居城としていたが、関東入封により、江戸城に移った。しかし、慶長8年(1603)に将軍職を子の秀忠に譲ると、駿府城に戻っている。こうして、駿府城は、大御所となった家康の隠居城として改修されることになる。そして、50家ほどの大名による天下普請で大幅に改修された。ちなみに、近年、家康時代の天守台石垣が発掘されたが、天守台石垣の大きさは江戸城よりも大きく、史上最大であった。家康の死後、駿府城は幕府直轄となり、幕末まで駿府城代が派遣されている。 名古屋城は、織田信長が居城としていた那古野城の故地に、家康が築いたものである。福島正則が「庶子の住居」だとして不満を抱いたのは、家康の九男・義直の居城として築かれたことになる。20家ほどの大名による天下普請で築城され、江戸時代を通じて、義直にはじまる御三家のひとつ、尾張徳川家の居城となった。 結局のところ、「慶長の築城ラッシュ」とは、関ヶ原の戦い後の徳川家と豊臣家との決戦を想定し、城が築かれた世相を示している。そのため、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると、新規の築城も幕府によって認められなくなった。年号も元和に改められ、名実ともに「慶長の築城ラッシュ」は終わりを告げたのである。
小和田泰経