古代ポンペイから生き延びた人たちはいるのか? 約2000年前のベスビオ大噴火、今も続く追跡
生存者の足跡をたどる
噴火によるポンペイの死者は2000人と推定されている。ということは、ほかに数千人の生存者がいたはずだ。彼らはどこに行ったのか。 その多くは、近隣の町に避難し、友人や親族の家に身を寄せたのだろう。 ネアポリス(現代のナポリ)も、そんな町の一つだったと思われる。それを示す証拠が、現代のルーマニアに残されている。 かつてローマ帝国の属州であったルーマニアのアダムクリシに、古代の戦没者記念碑が今も立っている。そのなかに、出身地としてポンペイとネアポリスが併記されている将校が含まれていた。残念ながら肝心の名前は残っていないが、この将校は噴火のあとポンペイからネアポリスに移り住んだと考えられる。 最近になって、古典学者のスティーブン・L・タック氏は、少なくとも5家族が噴火のあとポンペイからネアポリスに移住していたことをつきとめた。 ポンペイに特有の姓を手掛かりに、タック氏は噴火の生存者と思われる人々の足跡を丹念にたどり、カンパニア地方の様々な場所で西暦79年以降に建てられた墓の碑文に刻まれている名前を見つけ出した。ポンペイの生存者はほかにも、クーマエやポッツオリといった町に逃れ、そこで新たな社会を築いていった。 タック氏はさらに、ポンペイでは親戚関係になかった被災者同士が、噴火の後クーマエで結婚していた証拠も発見した。これは、双方の家族がクーマエのポンペイ出身者コミュニティーに属していたことを示している。
皇帝の災害支援
ローマ政府も、ポンペイ生存者の支援に乗り出したようだった。 ベスビオ火山噴火の知らせがローマに届くと、時の皇帝ティトゥス(在位79~81年)はすぐに行動を起こした。古代伝記作家のスエトニウスによると、ティトゥスは「皇帝としての憐みの情だけでなく、父親が子に抱く深い愛情をも示し、見舞いのメッセージを送るとともに、できる限りの経済的支援を与えた」という。 ティトゥスは、カンパニア地方の各地に避難してきた生存者を受け入れる住宅の建設を支援した。さらに、ポンペイの人々が好んで礼拝していたウルカヌスやイシスの神殿も建設した。 多くの犠牲者を出したベスビオ火山の噴火だったが、大災害を生き延びた人々は別の場所へ移り住み、生活を立て直していった。
文=PARISSA DJANGI/訳=荒井ハンナ