世界初の「空母機動部隊」を作った異端の日本軍人――「おのれの頭で考えつづけた」小沢治三郎の独創性とは?
「諸君は本校在学中そんな本は一切読むな」
しかし航空機などの新兵器による戦略・作戦環境の変化を直視せず、旧態依然たる方針を墨守(ぼくしゅ)するなど、小沢には到底肯(がえ)んじられるものではなかった。したがって彼の講義は、学生の自主性を重んじるものとなる。今日でいうシミュレーション、ルールにしたがい戦闘海面を想定した広間で駒を動かす「兵棋(へいき)演習」で自得させる方法を選んだのだ。ちなみに前出の「海戦要務令」については、一顧(いっこ)だにしていない。その一節を読み上げて、その意味を問うた学生に対して放った言葉は、「諸君は本校在学中そんな本は一切読むな」と、にべもない。 昭和12(1937)年、小沢は連合艦隊参謀長という要職に就く。このポストにあって、彼の独創性は重要な作戦・戦術構想の端緒を開く。航空機の威力に注目していた小沢は、従来のように空母を索敵・警戒に用いるのではなく、その集中運用を提唱する。すなわち戦艦や巡洋艦部隊にばらばらに配属されていた空母を、一人の指揮官の下に集めて「航空艦隊」を編成すべしと。 この構想は2年後、自ら第1航空戦隊司令官となってさらに前進する。空母「赤城(あかぎ)」飛行隊長の淵田美津雄(ふちだみつお)中佐の要望を容れ、実験を繰り返した後、意見書を海軍大臣に提出する。その結果、昭和16(1941)年、日米開戦の年に誕生したのが、大型空母4隻を基幹とする第1航空艦隊だった。世界初の、空母機動部隊の誕生である。
何が起こるか予想もつかぬ混沌が戦争の本質
この後の小沢の戦歴に対する評価は、毀誉褒貶が相半ばする。かつては山本五十六(やまもといそろく)や山口多聞(やまぐちたもん)に匹敵する名将だと謳われもしたが、近年の研究の進歩によって、マリアナ沖海戦や比島沖海戦での作戦指揮に疑問が呈されるなど、その名声が陰りを見せていることは事実だ。しかし小沢には、なお傑出した点があると大木氏は指摘する。 「それは独創性だ。 昭和海軍の将星のほとんどが、日本型『指揮統帥文化』にどっぷりと浸かり、教条的な作戦・戦術のもと、現実には生起し得ない日本海海戦型の艦隊決戦を夢見たのに対し、小沢は、そのときどきに置かれた状況において最善の方策は何であるかを、おのれの頭で考えつづけた。 プロイセンの軍事思想家クラウゼヴィッツは、何が起こるか予想もつかぬ混沌が戦争の本質であるとの理解を示した。今日、世界の軍隊にあっては、そうした戦争の不確実性に対応するには、個々の指揮官が自主独立の知性を磨きあげ、予想外の事態に即興的に対応できるようにするほかないとの認識が主流になっている。 かかる用兵思想の流れから顧みれば、小沢治三郎は、既存の規範に唯々諾々としてしたがう者が多かった昭和の軍人には珍しい、内在的な発想を持つ先駆的頭脳だったのかもしれぬ」 「おのれの頭で考えつづけた」小沢の独創性は、平成の日本社会においても、求められているのではないだろうか。 ※本記事は、大木毅『決断の太平洋戦史 「指揮統帥文化」からみた軍人たち』(新潮選書)に基づいて作成したものです。
デイリー新潮編集部
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