『ルックバック』河合優実&吉田美月喜の声にある“身体性” 俳優が声優を務める美点とは
多くの観客たちから大きな期待とともに迎えられた『ルックバック』が、いま想像以上の盛り上がりをみせている。 【写真】場面カット(複数あり) 漫画家・藤本タツキによる原作のあの世界観が、劇場アニメーションとして生き生きとスクリーンの中で息づいているのだ。主演声優を務めた河合優実と吉田美月喜の力も非常に大きいだろう。職業声優ではない彼女らの貢献度の高さに注目してみたい。 本作は、“漫画”や“絵を描くという行為”をとおして運命的な出会いを果たすふたりの少女の交流を描いたもの。小学校の学年新聞で四コマ漫画を連載し、自分の描くものに自信を持っている藤野の声を河合が、そんな藤野に対して強い憧れを抱く不登校生の京本の声を吉田が演じている。やがてお互いがかけがえのない存在となっていく藤野と京本の関係に胸が熱くなるが、それぞれ異なる声の質感を持った河合と吉田の掛け合いも素晴らしい。 河合といえば、いまや日本映画界の若手の中でもトップランナーのポジションにある存在だ。ここでそのキャリアを列挙はしないが、現在は主演映画『あんのこと』が公開中であり、第77回カンヌ国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞した『ナミビアの砂漠』の公開も控えている。宮藤官九郎が脚本を手がけた『不適切にもほどがある!』(TBS系)での好演も記憶に新しく、“日本映画界”という枠組みにとどまらず、現在のエンタメ界のトップランナーのひとりだともいえる存在だ。 いっぽうの吉田も新進気鋭の若手俳優である。『今際の国のアリス』(2020年/Netflix)や『ドラゴン桜』第2シリーズ(2021年/TBS系)などの期待の若手俳優が集結した作品で目立つ活躍をしながら、2023年公開の『あつい胸さわぎ』と『パラダイス/半島』ではそれぞれ主演とヒロインを、2024年公開の『カムイのうた』でも主演を務めている。現在は新国立劇場の小劇場にて上演中の舞台『デカローグ 1~10』デカローグ7「ある告白に関する物語」で主演俳優として舞台に立つ日々だ。話題作になるであろうことがあらかじめ予想できた『ルックバック』の主人公の声を演じる者として、両者ともに申し分のない存在なのである。 アニメファンにとっては、俳優が声優を務めることに関して、かねてよりさまざまな意見がある。声だけで演じる訓練を積み重ねてきた職業声優のほうが、アニメーションに声を当てる力は俳優を上回るはず。そう考えて当然だ。だから私は俳優が声優を務める際、声だけで何かを伝える力ーーつまり、“声の芝居”が器用であることが重要だと考えてきた。原作のある作品だと、『遊☆戯☆王デュエルモンスターズ』シリーズで主人公・武藤遊戯の声を演じた風間俊介などのように、ファンの想像を超えた“ハマり役”になる可能性だってあるのだ。 この考えは現在も変わらない。しかし、俳優が声優を務めることの美点はほかにもあるはず。そんなことを思いながら、私は『ルックバック』を鑑賞した。そこで「ハッ」と気がついたのが、俳優の声にはより“身体”が感じられるということである。 『ルックバック』を鑑賞する前日に「ある告白に関する物語」を観劇していたため、私は2日連続で吉田美月喜のパフォーマンスを堪能することになった。『ルックバック』で演じる京本と「ある告白に関する物語」で演じるマイカは、バックグラウンドが大きく異なるキャラクターだ。作品のフォーマットも違うのだから、声の出し方だって当然ながら違う。 しかも舞台上での彼女の声には、彼女自身の身体の動きがともなってくる。いや、正確にいえば、声と身体は感情を発するうえで連動し合うものだ。“体現”という言葉があるくらいだから、俳優には身体というものが無くてはならない。だが声を収録する現場では、この身体の動きが制限される。しかしそれでも抑えきれない身体から発される情報が、俳優が声優を務める際、その声に乗るのではないだろうか。だから俳優たちの声には、“身体”が感じられる瞬間があるのではないか。引っ込み思案な京本が自分の気持ちを絞り出す際の吉田の声は、まるでこの手で触れられるようなのである。 これは藤野役の河合にだっていえることだし、『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』でダブル主演を務めている幾田りら&あのコンビにもいえること。本業がミュージシャンである幾田の声にはリズミカルでダンサブルな身体が見え隠れし、バラエティ番組などでも人気のあのの声には、彼女自身が普段から見せる自由な身体が反映されているように感じる。 キャラクターの声のイメージに合うかどうかも重要だが、“声の芝居”が器用な者であれば、だいたいの役は演じられるものなのかもしれない。しかし技術だけでは、“ハマり役”と呼べる域にまでは到達しないだろう。俳優の声に身体が見える(感じられる)とき、劇中のキャラクターたちはより立体的な存在になるのではないか。そしておそらくそれが、職業声優ではない者たちが“ハマり役”を得られた瞬間なのだと思うのである。
折田侑駿