デジタル化がもたらしたドキュメンタリー作品への影響 人々を惹きつける記録映像の未来
今、最も身近な映像コンテンツは何だろうか。人によって意見は異なるだろうが、それはドキュメンタリーであると筆者は考えている。最も多くネット上に氾濫している映像は、フィクションではなく、広義のドキュメンタリーだからだ。 【写真】ポレポレ東中野編成担当、石川翔平インタビューカット YouTubeに投稿される動画は大半が記録映像である。作り込みの必要なフィクションやアニメーションよりも圧倒的に低コストで作れるからだ。それでいて、ネタによっては非常に刺激的な内容にすることができる。悪い例を挙げれば「私刑のために映像を利用する人」などは、カメラの目の前で本当に行動に踏み切る瞬間(それが冤罪であることも多い)をドキュメントしているから多くの人の興味を惹きつけている。 ドキュメンタリーは今、良くも悪くも「一般化」している。観ることも作ることも。それはカメラのデジタル化によって軽量小型化、低廉化し携帯電話にすら搭載されるようになったからだ。 映像から時代を考えるという立場をとるなら、ドキュメンタリーについて考えることは必須だと筆者は考えている。横溢する記録の時代、それをもたらしたデジタルの功罪について今一度考えてみたい。 ■カメラの低廉化がもたらしたもの デジタル時代、カメラの低廉化にともない、撮影行為は圧倒的に低コスト化した。 その結果、映像作品の数は飛躍的に増大した。中でもドキュメンタリー映画の製作本数は顕著に増加した。ドキュメンタリー映画に従事する制作者は、インデペンデントに活躍する存在が多く、低コスト化の恩恵をダイレクトに受けやすい。長年、ドキュメンタリー映画の上映を手掛けてきた映画館のポレポレ東中野で編成を担当する石川翔平氏はデジタル化によって「ドキュメンタリーは普通にあるものとなり市民権を得た」のではないかと語っている。 デジタル化の恩恵は、低コスト化だけではない。カメラの軽量・小型化は、ドキュメンタリー制作者によりアクチュアルな映像を撮影することを可能にした。アメリカの、映画芸術科学アカデミーが映画のデジタル化についてまとめた資料「デジタル・ジレンマ2」によると、ドキュメンタリーの作り手たちは、デジタル化のメリットの一つに「人目につかずに撮影する自由度が高い」ことを挙げている。(※1) 人はカメラを向けられると、多かれ少なかれ自然な状態ではいられなくなる。カメラが大型であればあるほど、与える緊張感は大きくなり、自然な振舞いを抑制しがちとなる。事実の記録から構成するドキュメンタリーにとって、これは大きな問題となる。そこにカメラがあるだけで、被写体はいつもと違う状態になってしまうなら、事実が歪められることになるからだ。 しかし、デジタル化はカメラの存在感を希薄化した。デジタルカメラ普及初期の2003年、山形国際ドキュメンタリー映画祭で審査員長を務めた批評家・映画作家のアラン・ベルガラ氏は、ドキュメンタリー映画にとって大切なのは「現実の現実性」であると語り、デジタル化で誕生した「新たな機材の重要性」を唱えた。 「小型キャメラを手にすることで、映画作家はたったひとりで、彼自身の映像と音をつくり出すのです。そこから何か新しいものが生まれたのです。小型キャメラのおかげで、これまでとは異なる精神で作られた作品が可能になった。たしかに、フィルムで撮影された作品とは明らかに異なるのですが、しかし、すぐれた映写機をもってすれば、全く引けを取りません。それに、こういった新しい機材で撮られた作品はフィルムとは別物なのです。それによって、たとえば蝋燭一本に照らされた夜間の撮影なども可能になりました。以前だったら、大げさなライトを当てなければ、このような場面は撮影不可能だったでしょうし、そんな装備を現場に持ち込めば、雰囲気を、リアリティーを損なってしまうのは目に見えています。もちろん作家の才能無くしてはなしえないにしても、新たな機材によって何か新しいものがドキュメンタリーにもたらされつつあるということを、私はここであらためて発見したのです。」(※2) されに時を経て、GoProに代表されるアクションカメラや空撮可能なドローンなど新しい撮影機材の登場は、映像作家の視点をさらに広げた。大型カメラの時代には得られなかった、新しい視点の現実を人々は撮ることができるようになったのだ。 ■時代精神としてのドキュメンタリー デジタル化によって記録映像が氾濫する時代を、批評家の渡邉大輔氏は「時代精神としての『ドキュメンタリー的感性』がある時代と呼んでいる。(※3) そんな時代精神の反映を映画作品の枠で語るなら、報道のプロや映像作家ではない非専門家の視点を導入した作品が増えてきたということが挙げられるだろう。 それが大きな力を発揮するのは、例えば紛争や市民デモを扱った作品だ。シリア内戦を現地の人々が撮った映像で構成した『シリア・モナムール』(2014年)や圧政下のミャンマーを市民の映像を駆使して描き出す『ミャンマー・ダイアリーズ』(2022年)、香港デモ参加者たちの映像で作り上げた『理大囲城』(2022年)などは、紛争やデモの当事者の目線を直接体験させる。ロシアから軍事侵攻されているウクライナでも市民からの映像発信は大量にあるし、今般のパレスチナ・ガザ地区の虐殺からも同様の映像が多く出回っている。近いうちにそうした当事者の映像を駆使した作品が誕生するだろう。 これらの作品は、誰もがカメラを持ち記録しようという意志がある「時代精神」が可能にした作品と言える。それを下支えしているのはデジタル化なのだ。 ■撮影行為が手軽になりすぎた代償 しかし、誰もが事実を記録できる時代は必ずしも良いことばかりではない。変化には常に表と裏がある。 文芸評論家の藤田直哉氏は、「震災ドキュメンタリーの猥雑さ」という論考で、2011年の東日本大震災時に最も早く反応したジャンルとしてドキュメンタリーを挙げ、その理由を「そこにあるものを撮影するだけで『作品』として成立してしまう『強度』があった」からと述べる。(※4) カメラを回すだけで作品としての強度を獲得できる「手軽さ」は、安易な衝撃映像を氾濫させたかもしれない。それはプロの映像作家たちだけに言えることではない。当時のSNSには日々、衝撃映像が溢れていた。それは真摯にこの悲劇を受け止めようという気持ちと、衝撃映像で注目されたい「承認欲求」と小銭を稼ぎたい欲望が、タイムラインでないまぜになっていた状態だった。 デジタル化は撮影という行為を一部の専門家の特権的な行為ではなく一般化したが、その利便性は認識されても、撮影行為の暴力性はあまり意識されないままとなっている。SNSによって進行した「承認欲求」の社会化とドキュメンタリー的時代精神は、あまり良くない相性を発揮している面がある。撮影の倫理観はどこかで置き去りにされてしまっているのではないか。「私人逮捕系YouTuber」などは、その象徴的な存在だろう。 そして、承認欲求の肥大化は、デジタル化のもう一つの側面、加工技術の発達によりフェイク画像を増加させてもいる。技術の進化によって見破りづらくなったのもあるが、世の中に溢れる映像の大半が記録であるという意識が広がれば広がるほど、フェイク動画に引っかかりやすくなる。 デジタル化で記録行為は容易になったが、同時に映像の記録性に対する信頼も落ちている。記録しやすくなったのに信用は損なわれているという皮肉な状況となっているのだ。 ■オンラインゲームのドキュメンタリーが示唆するもの 映像がもはや事実を担保できない時代、ドキュメンタリーはどこに向かうだろうか。 それを考える上で、2023年の山形国際ドキュメンタリー映画祭でユニークな事例が紹介された。インターナショナル・コンペティション部門で上映された『ニッツ・アイランド』(2023年)は、全編ゲーム映像で展開する異色の作品となっており、実在するオープンワールドのオンラインゲーム『DayZ』で交流する人々に、オンライン上で取材した映画作品だという。 これは、言うなればデジタル世界で過ごす人々のドキュメントと言える。ゲーム世界を虚構と分断していては、今の現実を捉えそこなうかもしれない。筆者もまだこの作品を観ていないのだが、是非とも一般上映されてほしい。デジタルとドキュメンタリーの関係、そして、現代社会を考える上でも貴重な示唆を与えてくれそうだからだ。 現実の輪郭があやふやになった今、映像がただちに事実である保証はない、そしてゲームのようなデジタル加工の世界がただちに虚構であるという保証もない。ドキュメンタリーを考えることは今の時代を考えることである。現実は今どこにあるのかを考えるためにも、私たちはドキュメンタリーについて考え続ける必要がある。 参考 ※1. デジタル・ジレンマ2 https://www.nfaj.go.jp/fc/wp-content/uploads/sites/5/2016/04/DigitalDilemma2_JP_NFC.pdf ※2. YIDFF: インタビュー: 2003 https://www.yidff.jp/interviews/2003/03i001.html ※3. 『新映画論 ポストシネマ』渡邉大輔著、ゲンロン叢書(株式会社ゲンロン)、P83~P96 ※4. 『21世紀を生きのびるためのドキュメンタリー映画カタログ』(キネマ旬報社)、「震災ドキュメンタリーの猥雑さについて」藤田直哉著、2016年、P87
杉本穂高