不登校「数を減らす意味はない」慶応大学教授が語る根拠 「引き裂かれた社会」を変えていくために大事な視点
だが、母の優しさは、完全に裏目に出てしまう。学年を追うごとに欠席日数は増え、卒業時には年に40日くらい欠席するようになったのだ。こうして私は、不登校児の仲間入りを果たすことになった。 スナックのカウンターで勉強した。母の勧めで私立の中学を受けたが、あっさり落ちた。恥ずかしさからか引きこもりが始まり、中学に入ると朝から晩までお菓子を食べ、マンガを読み、ただダラダラと過ごすようになった。 みるみるうちに太っていった。たまに登校しても、クラスメイトの冷たい目線が気になる。何とかしなきゃとは思ったが、学校に私の居場所はなかった。
■「このままじゃ人生が終わる」吐きながら勉強 まるで負け犬のような気分だった。このままじゃ人生が終わる、一生負けっぱなしなのか、そう思った私は、最後の1年間だけ、死ぬ気で勉強しようと決めた。 4時間以上寝た日は1日もなかったと思う。食事をしながら勉強し、お風呂でも、トイレでも、信号待ちの時間でさえも勉強にあてた。 最初はそんな自分に酔いしれていた。ところが、少しずつ自律神経がおかしくなっていく。真っ直ぐ歩けず、毎日、嘔吐した。母は泣きながら、勉強をやめろと言った。でもやめなかった。どうしてもやめられなかった。
うちは貧しい母子家庭で父親はいない。母親の仕事は水商売。おまけに中学受験も失敗している。なんとかして、そんな欠乏感だらけの人生から抜け出したかった。私は、自分なりのやり方で、必死に突っ張って生きようとしていた。 気の毒なのは学校の先生。完全に扱いに困っていた。ある日、学年主任と担任の先生が、面談をひらき、私がクラスの雰囲気を悪くしていること、身勝手な行動は決して自分のためにならないことを、延々と母に説き続けた。
まるでサンドバッグだった。だが、先生の言うことは、私が聞いていても明らかに正しかった。母は、目をつぶって、しょんぼりうなだれている。私は私なりに命懸けだったが、子のわがままで叱られる母の姿を見るのは本当に辛かった。 ■「みなさんよりも息子のことを信じています」 長いお説教が終わった。母はなんと詫びるのだろう、なんと言って私を責めるのだろう、ビクビクする私のとなりで、母は声をしぼりだすように言った。