執権・北条義時の影に父・時政あり!リーダーの成功は偶然か必然か?
■ 頼朝挙兵を成功に導いた時政の発案 『吾妻鏡』(鎌倉時代後期に編纂された歴史書)に「頼朝は時政を部屋に招き、絵図を置いて、兵士が進軍する道や、進退する場所を全て細かく指定」(1180年8月4日条)とあるのを見ても、それは明らかです。 頼朝の挙兵に反対し、敵方(平家方)に付いた武将もいたことを思えば、時政の「選択」は、(後世から見ても)賢明と言うべきでしょう。同書によると、挙兵時、頼朝は時政だけを本心から信用・信頼していたとあります。 北条氏は大兵力を擁していた訳ではありませんが、頼朝は縁者ということで、時政を恃みにしていたと思われます。挙兵の際、頼朝は軍勢を派遣し、平家方の山木兼隆を討つことになるのですが、その途上、時政は「山木兼隆の後見人・堤信遠は、山木の北方にいる。信遠は、優れた勇士なので、兼隆と同時に殺しておかないと、後で面倒な事になるであろう。佐々木兄弟は、堤信遠を襲撃すべし。案内人を付けよう」(『吾妻鏡』)と言って、堤信遠を攻めさせて、これを討つのです。 『吾妻鏡』のこの記述を額面通り受け取るとすると、信遠襲撃は事前の計画にはなく、時政の急な発案ということになります(急な思いつきではなく、時政としては、信遠を討つことを前々から心のどこかで考えていたとも思われます)。 しかし、時政の発案が、頼朝挙兵を成功に導いた1つの要因と言えるかもしれません。時政が言うように、もし信遠を放置していたら、頼朝軍が山木邸を攻めている最中に、進撃してきて、頼朝軍は劣勢になっていた可能性もあります。そうしたことを考えた時、時政もまた日頃から、アンテナを張り巡らせて「考える人」だったと言えましょう。 切迫した場面における臨機応変さも、頼朝が信頼するところだったかもしれません(成功したから良かったものの、見方を変えれば、単なる独断と言えなくもないですが)。義時が、時政という鋭敏な父を持ったことも「成功」の1つの要因とすることができるでしょう。
濱田 浩一郎