写真残せど音はなし サッチモの師匠が師と仰ぐジャズ先駆者の伝説とは?
ジャズ評論家の青木和富さんのコラム第3夜をお届けします。ジャズに詳しい人ではなくても、ルイ・アームストロングの名前とその演奏は、どこかできいたことがあるのではないでしょうか? 今夜は彼の師匠とそのまた師匠についてのお話を聞いてみましょう。※【連載】青木和富の「今夜はJAZZになれ!」は、毎週土曜日更新予定です。
ジャズに詳しくなくても、誰もが知っているサッチモ
ルイ・アームストロングのことなら、ジャズを知らない若い世代の人でも、きっとどこかで聞いたことがあるに違いない。ときおり、BGMで流れる「この素晴らしき世界」が有名だ。これは、映画「グッドモーニング、ベトナム」(1987)の戦闘シーンでも使われた。人が殺しあう残酷な戦争を、この世界の素晴らしさを幸せそうに歌うこの音楽で埋め尽くした演出は、何とも意表を突く見事なものだった。これは逆説と言えばそうなのだが、そもそもアームストロングの声がだみ声で、普通、音楽的には悪声としてしか言えないものなのに、何故か心を癒す気持ちのいい歌声に聴こえる。何度聴いても、その度にサッチモ(アームストロングの愛称)は名歌手としか言いようがなく、常識を超えるジャズの不思議さがここにある。 さて、そのサッチモが、故郷のニューオリンズを離れ、シカゴに移ったのは1923年の22歳のときだった。師と仰ぐキング・オリバー(1885-1938)の要請だが、以来この若者は、ニューオリンズ・ジャズを元にしながらも、次々と独創的なアイデアを実現し、この時代のシカゴ、そしてニューヨークの都市の音楽としてのジャズを確立していく。その話は後にするとして、その前にこの時代のことを、サッチモの成長とともに、もう一度振り返っておくのも悪くない。
サッチモの師匠キング・オリバーが師と仰ぐ伝説の人とは?
サッチモは、1901(明治34)年に生まれた。ニューオリンズの貧困層の黒人で、少年時代にピストルを撃ったことで、少年院に送られる。その少年院のバンドに参加し、トランペットと出会った。その後、当時絶大な人気を誇っていたキング・オリバーを師とし、演奏活動も開始する。ところで、このオリバーはジャズの黎明期で重要な人物だが、実は、そのオリバーが師と仰ぐもう一人の重要なジャズの先駆者がいた。もし、ジャズの創始者は誰かと問われれば、おそらく、その人バディ・ボールデン(1877-1931)となるだろう。 ボールデンは伝説の人である。写真は残されているけど、演奏の記録はない。バンドのメンバーの証言によると、いくつかエジソンのシリンダー式録音機の記録があるはずということで、今も探し続ける人がいるけど、未だ発見にいたってない。録音といっても、公式の記録はなく、プライベートなものか、地方でごく小数流通されたものだろうと推測され、もはや存在してない可能性が大きい。 それ故にというべきか、この謎めいた才能の奇妙な逸話がたくさん残されている。床屋をやっていたとか、そのかたわらゴシップ誌を出版していたとか、とにかく当時の人気は絶大で、とくに女性たちを夢中にさせたというから、こうした噂話のようなものが、まことしやかに後世に伝わったのである。今ではこのほとんどが事実ではないとされている。ただ、ボールデンのコルネットが放つ轟音と即興、そしてバンド編成など、そうした自由な表現が、その後のミュージシャンに与えた影響ははかりしれない。 この人物を、さらに謎の伝説的存在にしているのが、1907年に忽然と人々の視界から消えたことにあるだろう。強度のアルコール依存症のボールデンは、今でいう総合失調症で倒れ、それからの20余年の人生を孤独に精神病院で送ることになる。仲間のミュージシャンでない限り、その名はいつしか人々の記憶から消えていく。ボールデンの死は、その死から約10年後の調査でようやく判明されたという。無縁仏として共同墓地に埋葬され、その正確な位置は、今も分かっていない。 サッチモには、ボールデンの記憶がかすかにあるという。きっとあれがボールデンだったのだろうと思い出すことがあったようだ。けれど、年齢からすると、それは少なくとも5~6歳の幼児の記憶である。とはいえ、ボールデンと共演し、師と仰いだキング・オリバーを介して、サッチモもまたボールデンの後継者であることは間違いないだろう。何よりも思いついたことを、すぐに実行するというその常識にとらわれない破天荒な創造力は、オリバーよりもサッチモが受け継いだと言いたくなる。 (文・青木和富)