「新庄監督」にあって「立浪監督」に無かったもの 郡司裕也の起用法が浮き彫りに
阪神での現役時代にファンから屈辱を味わった新庄監督
新庄監督と立浪監督は、3年目になって両者の「監督の差」が浮き彫りになったが、なぜ新庄は監督として成果を出すことができたのか。私は大きく二つの理由があると見ている。 一つは「現役時代に味わった苦労の差」によるところが大きい。 たしかに新庄監督は立浪監督と同様、現役引退後はコーチとして一度もユニフォームを着た経験がない。彼が引退したのは2006年であることを考えると、現場へのブランクは立浪監督よりも3年長い。15年もの間、日本ハムを除く11球団から指導者としてのオファーがなかったところに、突如として日本ハムからの監督就任要請。世間も驚いただろうが、球界の人間もあっと言わせるには十分すぎるほどのインパクトがあった。 一方で、新庄監督の現役時代に目を向けると、決してエリートだったわけではないことがわかる。1989年のドラフト5位で阪神に入団してから2年間は二軍でじっくり鍛えられ、3年目となる92年にメキメキと頭角を現してきた。そのルックスと奇想天外な考え方は、それまでの阪神にはないキャラクターとして多くの阪神ファンの心をつかみ、一躍スターダムにのし上がっていった。 けれども、そこから先は決して順風満帆だったとはいえない。1995年に当時の監督だった藤田平と衝突し、この年のオフには「野球のセンスがないって見切った」と言って、突然の引退宣言をしてしまう。
新庄剛志に掲げられた「恥を知れ」の横断幕
この発言はのちに撤回されたが、その後は打撃では思うように成績が上がらず、1997年のオールスターでは、阪神ファンのみならずセ・リーグの応援団から応援をボイコットされる。「新庄帰れ」コールまで起こった。それにとどまらず、 「新庄剛志そんな成績で出場するな恥を知れ」 と掲げた横断幕までスタンドに現れた。これほどまでに屈辱的な出来事はない。新庄自身、当時の心境を引退会見のときにこう話している。 「あのときのショックな気持ちはいまだに忘れない。選手は一生懸命にプレーしているので、たとえ不調であっても応援してほしい」 野球を真面目にプレーし、思うような結果が出ていなかっただけである。それにもかかわらず、味方であったはずの阪神ファンからもこのような仕打ちを受けたのだから、プライドはズタズタになったに違いない。 だからであろう、選手に対して厳しいことを言っても、決して腐すような言い方はしない。新井監督と同様、自身が体験した嫌な思いを、選手には味わってほしくないと考えた末の発言をするあたり、彼の歩んできた過去の苦労の一端がうかがえる気がした。