黄金色に染まる古里をもう一度 福島・葛尾村で再起誓う農家 #知り続ける
10年以上へて「我が家」に
18年、ようやく解除の見通しが示された。帰還困難区域であっても優先的に除染とインフラ整備を進めて帰還を目指す「特定復興再生拠点区域(復興拠点)」を設けることを国が決め、約1600ヘクタールの野行地区の約6%が復興拠点に設定された。 半沢さんは自宅が復興拠点に入ることが決まると、解体した上で、21年に木造平屋の一軒家を再建した。解除前の準備宿泊で1人で泊まった。風呂に入り、床についた時には、「今、野行にいるんだな。ようやく自分の家に帰ってきた」という安堵(あんど)感に包まれた。 遠くから聞こえるホーホーというフクロウの鳴き声が懐かしかった。10年以上止まっていた時計の針が、ゆっくりと動き出したように思えた。
収穫したコメ、処分場へ
12年3月、村役場を58歳で早期退職してからは、JAや県農業振興公社で農業復興に携わるようになった。 半沢さんの1.3ヘクタールの農地も復興拠点に入り、宅地とともに除染された。表土をはぎ取り、客土した。 野行地区でコメの試験栽培が始まったのは21年からだ。1年目は地区内で最も放射線量が高い農地で行った。 国の基準値(1キロ当たり100ベクレル)は超えなかった。それでも、半沢さんは持って行き場のない収穫したコメを軽トラックに積み込み、県指定の廃棄物処分場に運んだ。「せっかくここまで作ったのに、投げる(捨てる)のか」。やるせなかった。 2年目は自らの田んぼでも作付けした。サンプリング用に5カ所で収穫し放射線量を測定した。やはり国の基準値は超えなかったが、残り全てを処分した。出荷制限の解除に向けた手順を示した国の規定に基づいて全量廃棄しなければならないからだ。
ビニールハウスで自給自足
22年12月、半沢さんはビニールハウスを新しく建て、村外の土を入れた。「販売以前にまずは自給自足用に栽培し、自分の中で大丈夫だと理解しないと次に進めない」との思いからだった。 福島県によると、原発事故で被災した12市町村で、事故後に営農を休止した面積は最大1万7298ヘクタールに上った。このうち、営農を再開したのは22年度末時点で8015ヘクタール、46.3%にとどまる。葛尾村でも398ヘクタールで営農休止となり、22年度末時点で再開されたのは29.3%にすぎない。 県の担当者は「避難指示の解除が早かった地域は住民が戻り、営農を再開しやすい傾向にある。一方、避難指示の解除が遅れた地域の住民は、避難先で新たな生活基盤を築いており、帰還の動きが鈍く、営農再開も進まない」とみている。 こうした状況を受け、国は営農再開に向けた支援策を用意する。半沢さんもトラクターなどの購入代金約800万円のうち4分の3で国と県の補助金を活用した。しかし、この補助金も26年3月には終わる。