「何度も何度も彼が助けてくれた」亜大時代の盟友が語る、カープ矢野雅哉の大学時代
今シーズン、ショートのレギュラーを掴もうとしているカープ・矢野雅哉。大学時代は名門・亜細亜大でプレーし、主将としてもチームをまとめていた。ここでは当時野球部で学生コーチとして過ごした盟友・鈴木康介氏に、同志・矢野の知られざる大学時代のエピソードを語ってもらった。(全2回・1回目) 【写真】兄・幸耶さんが語る矢野雅哉 ◆『負けられないチーム』というプレッシャーのなか、矢野の存在は学生コーチの自分にとって大きかった 矢野とは亜細亜大硬式野球部の同期であり、共に4年間を必死に生きた仲間です。私は中学も高校も補欠の選手でしたが、全国トップレベルの選手が集まる亜細亜大に学生コーチとして入部しました。矢野は1年生の頃から試合にも出場する主力組でしたので、最初は接する機会がほとんどありませんでした。よく話をするようになったのは2年生になってからで、私が主力組に帯同させていただくようになり、いろいろと矢野との関わりが出てきました。 下級生の頃は私が矢野に何かをしてあげたというよりも、助けてもらうことばかりでした。私はずっと補欠の人間でしたので、チームを牽引する力などなく、亜細亜大で学生コーチをやるに相応しくない人間だったと思います。2部に落とすようなことがあってはいけない、負けられないチームにおいて、学生コーチもミスができないポジションです。一塁コーチャーもやらせていただいていましたが、能力も経験もない私にとって苦しい毎日でした。 1年生から主力としてプレーしていた矢野がそんな私の姿を見てくれていて、野球の細かい部分をいろいろと教えてくれたり、苦しんでいる私に寄り添い、励ましてくれることが多々ありました。私が主力組としてやっていく上で、いつも近くに同級生の矢野がいてくれたことは、本当に頼もしかったです。 矢野自身も下級生ながら主力メンバーに入っているわけですから、ついていくので精一杯な部分もあったと思います。それでも、自分のことを気にかけてくれて、何度も何度も助けてくれました。なので、4年生になり矢野が主将になったときには、「次は自分が助ける番だ」と思い、尽くすことに徹しました。私の感覚としては、ひたすら恩返しをしていたような感覚です。 矢野は人前で話すことが得意ではありません。矢野には背中で何かを伝えてほしい、プレーでチームを引っ張ってほしいと思っていました。なので、言葉で人を動かしたり、そういう事は自分がやることで、うまくバランスが取れていたのではないでしょうか。主将としてカリスマ性があって、絶対的な存在というよりも、どこかツッコミどころがあり、みんなに愛されるような存在で、後輩もやり易かったと思います。 忘れられない場面があります。4年生のとき、リーグ戦中の深夜に、室内練習場から音が聞こえてくる日がありました。見に行くと、汗だくになりながら打ち込む矢野の姿がありました。そのもがき苦しむ姿は、『チームを負けさせられない』といった主将としての責任を背負っての行動です。普段仲間に見せる姿は、親しみやすく、人間味のあるものでしたが、主将としての肩書きに苦しみながら、人の見えないところで必死に戦っていたと思います。 (後編へ続く)
広島アスリートマガジン編集部