「お笑いでも映画でも人とのコミュニケーションでも、すべては“間”。“間”の上手い人って本当にたまんないんだよ」北野武・構想30年の“本能寺の変”に込めたもの【『首』独占インタビュー】
「俺は日本映画のキャンサー(癌)」から、現在は…
───日本に先駆けてカンヌでも上映しましたが、どの辺に反応されましたか? たまたまあるシーンで「カット」がかけられなくて、そのまま回しちゃった場面があって。その流れのまま台詞のやりとりになるんだけど、わりとそういうシーンに客はなぜか笑ってんだよね。なんかアドリブ合戦になっちゃってることに気づいたんだかわからないんだけど、そのニュアンスが面白いんだか、結構ウケてくれたよね。 ───『首』のごとく、いつか現代の政治家が裏で蠢き、火花を散らすような現代の権力闘争の映画を北野作品で観てみたいものです。 『首』は、時代劇らしき衣装を身につけ、時代劇の映像として槍とか刀を持ってるけど、結構ある部分、ひねくれたヤクザ映画にもなってんだよ。だから、結局人間の本質的な出世とか暗躍とか寝返りとかって、そうしたものはほとんど昔から変わってないんだろうね。というか、裏切りとか陥れる闘争の末に権力ってものが恐ろしく肥大していくんだろうけど、何百年経ってもそこはやっぱり同じようなものだよね。 ───25年くらい前に武さんが「俺は日本映画のキャンサー(癌)だ」とおっしゃっいましたが、もはや「太陽」の部分も担っているんじゃないですか? 自分の映画を比喩として映画界の癌のようなものだと言ってただけなんだけど、理屈的に言えば、癌細胞は身体の普通の細胞を駆逐するけど、そもそも最初からおいらの身体全部が癌細胞で出来てたなら、それそのもの全体が強いわけじゃねぇかってふざけた例えがあって。 おいらみたく癌のような映画を撮り続けてゆくと、しばらくはその病気が厄介に思われる、みたいな。そんなものよりも圧倒的に強い抗生物質のような映画が出てこないと俺の癌ははびこってしまうぞ、みたいなね。 ただ、こういう癌のような映画を打ち破るような正統派の映画が出てくれば、それは素晴らしいもんだと思うけど、そう簡単に癌的映画は克服できないよっていうかね。ペストと同じで原因がどこにあるんだか、なかなかわからないっていうかさ。 ───北野映画の何ともいえない独特の味わいとは、相変わらず編集が一番のポイントといえますか? 以前、あるところでとある議論になった際、“間”は映画の編集に関係ないみたいなことを言ってる意見があって、まったくかみ合わなかったことがあったんだよ。“間”の意味もわかんなくて編集するのかという話なんだけれども。お笑いでも、人とのコミュニケーションひとつとっても、すべてのものは“間”なのに。 落語とかお笑いでも“間”の上手い人って本当にたまんないんだよね。その“間”は、料理で言えば出汁なんだ。あらゆる分野に存在する“間”的な意味で。 スポーツやダンスだと“タイミング”というのかもしれないけど。 往年のバッターの王(貞治)さんがフラミンゴ打法で片足を上げたことだって、ほかの人とは“タイミング”やら“間”が違うわけじゃん。でもドンピシャのタイミングを取るためにああなっちゃったってのがあるから。 「映画の編集の間が面白いね」って言われるのは、その“間”に気がついてるってことだからわかってくれてる。それはありがたいっていうかね。普通の人は映画を観て「面白かったね」って言ってくれるけど、その原因が何なのかはわかんなくて、それが実は“間”だってことに気がついてなかったりする。 仮に、そこで描いた“間”を取らずに編集してしまったとしたら、さぞつまらない映画になるぞっていうことにも気がついてない。まぁ観る側だからいいんだけど作るほうにとっては、この“間”を挟んだことに気づかれないように、ちゃんと“間”を取ってるっていうかね。なかなか表現が難しいんだけど、そこが隠し味みたいなもんなんだ。 ───待ちに待たされた本作です。すべての読者へメッセージを! これまで大河ドラマとか多くのメディアでこの世界を描いた作品はあるけれど、それらはあくまでもお茶の間の皆さんの期待に沿った純然たる物語であって、主人公は色男で、かっこいいエンターテインメントとしての役割を果たす標準だった。 反面、お金をいただいて映画を観せるとなったときに、実はこんな強烈な世界もあったんじゃないのか?というような、従来のイメージも払拭して描くっていうのを大きなバジェットでやってみたってとこかな。 取材・文/米澤和幸(lotusRecords) 撮影/尾形正茂(SHERPA)