穐吉敏子、日本のモダン・ジャズの歴史はこの人から始まった
戦後の強い女性の象徴でもあった穐吉敏子
このモカンボのライブ記録には、秋吉敏子の演奏もある。ちなみに今は穐吉敏子と正式な表示になっているが、長い間分かりやすい秋吉が使われ、昔からのファンはこちらの方が馴染みやすい。守安と穐吉の違いは、こうした不遇時代に、穐吉は幸運を手繰り寄せ、そして、それを可能にした人間的な強さにあると言ったらいいだろうか。彼女は、戦後日本の強い女性のまさに代表的な存在である。この時代、世界を見渡しても女性ジャズ・ミュージシャンは数少なく、そんな時代から現在88歳米寿を迎え、今も現役として演奏活動を続ける彼女は、最強の女性ジャズ・ミュージシャンと言いたくなる。 強さを強調しすぎたかも知れない。一方で彼女は優しい大和撫子の代表でもあろう。穐吉敏子は、1929年12月、当時満州の遼陽で生まれた。かつては大連の生まれと表記されていたが、後に直された。満州と言えば大連という一般的なイメージがそうさせたのだろうが、彼女自身もそんなことはどうでもいいと思っていたのかもしれない。大連は、後で彼女が女学校に通い、そして、ピアノを学んだ街である。彼女の代表的なオリジナル「ロング・イエロー・ロード」は、その子供の頃に見た風景が描かれている。そして、少女時代は、熱烈な愛国少女だったという。 敗戦後、一家は別府に引き揚げ、そして、駐留軍キャンプのホールでジャズ・ピアニストとして活動を開始するが、こういう一徹の少女が、この新しい世界を知ると、そうした甘い環境に我慢できるわけはない。1948年19歳の夏、彼女は東京の人となる。 それから4年後に彼女はコージー・カルテットという自分のグループを発足。若き渡辺貞夫がデビューしたグループだ。その翌年の1953年に来日したオスカー・ピーターソンに認められ、日本でアメリカ・デビュー作が録音される。それがきっかけで、ジャズの専門学校ボストンのバークリー音楽院への日本人最初の留学キップも手にする。バークリーに単身旅経ったのは1956年で26歳のときだった。 まるでとんとん拍子のジャズ人生の始まりだった。むろんこれを可能にしたのは、彼女の才能、そして人並外れた強い意志のようなものが大きいが、もうひとつ、実は彼女のかわいい容貌、人となりのようなものが、周囲を魅了したのではないかとも思っている。ボストンのバークリー音楽院では、男子学生らが笑顔で彼女を迎えたのではないだろうか。そんな彼女を最初にデートに誘うのに成功したのが、バリトン・サックスのサージ・チャロフだったという。当時を思い出し、「シャイな人でした」と教えてくれた彼女の笑顔も忘れられない。 (解説:青木和富)