食事は冷めたピザ、何度も監督室で「クビ」宣告…筒香嘉智はそれでもメジャー挑戦をやめなかった 在米記者が見た「4年間の苦闘」
2年目の逆転サヨナラ弾、3年目は1年契約を選択
翌21年には、レイズから戦力外通告を受けた後、ドジャースを経て、シーズン終盤の8月、大砲不在のパイレーツへ移籍した。同29日の本拠地カージナルス戦では9回、右翼場外へ消える特大の逆転サヨナラ3ランを放つなど、持ち前のパワーを発揮した。同オフには、パイレーツから複数年契約を提示されたにもかかわらず、自ら1年契約を選択した。だが、開幕直後に腰痛に見舞われたのを機に、戦列から離脱した。そこから再びプレー機会を求め、他球団を渡り歩く日々が始まった。
ビザ取得が遅れ、調整が間に合わなかった4年目
23年はレンジャーズとマイナー契約を交わしたものの、ビザの取得が遅れ、キャンプには途中合流を余儀なくされた。開幕までに実戦での調整が間に合わず、戦力構想から外れ、マイナー行きを通告された。 開幕後間もなく、傘下3Aでプレー機会が少ないことを実感した後には、独立リーグのニューヨーク「スタテン・アイランド」でプレーすることを決断した。中心地マンハッタンからフェリーで約25分を要する同地では、食事はほぼ毎日冷めたピザばかり。手を伸ばせる代物ではなかった。そんな不遇の中でも、結果を残したことで、同年にはジャイアンツとマイナー契約を交わした。NPBで打撃2冠を獲得した実績があっても、米国の競争社会では何の意味も持たない。めまぐるしい環境の変化も、正面から受け止めつつ、グラウンドに立つことを最優先にしてきた。
常にアクシデント続きだった日々だったが…
米国移籍後は、コロナ禍、オーナー陣による「ロックアウト」、故障、ビザの取得遅れなど、常にアクシデントと向き合ってきた。その間、監督室に呼ばれ、「クビ」を通告されたことも1回や2回ではない。だが、ロッカー室で荷物をまとめ、次の行き先が見えないまま、球場を後にしても、筒香は未練がましく振り返ることをしなかった。 目標をあきらめる、という選択肢はなかった。
自費2億円を投じた活動に込めた思い
野球選手としての処遇が不安定でも、筒香は自らの置かれた立場や役割を強く自覚していた。昨年12月には、故郷の和歌山・橋本市に自費2億円を投じた「TSUTSUGO SPORTS ACADEMY」が完成した。 「未来ある子供たち。それをつぶすのも大人ですし、生かすのも大人」 野球界だけでなく、日本の将来を背負っていく子供たちをサポートするために、大きな一歩を踏み出していた。
筒香にとって無駄なものはひとつもない
確かに、米国での月日は、順風満帆には程遠かった。ただ、筒香の価値観は違う。5年ぶりにDeNAの背番号「25」に袖を通した筒香は言った。 「過去のことを振り返っている時間はない」 たとえ、周囲には不器用な生き方と映ったとしても、筒香にとって無駄なものはひとつもない。 米国で培ったハングリーさ、貫き通した野球への真摯な姿勢、そして子供たちへの思いは、満員の横浜スタジアムで、豪快なアーチとなって、再び花開くに違いない。
(「メジャーリーグPRESS」四竈衛 = 文)
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