「福岡城に天守閣」議論が再燃 地元期待も存在証明の壁高く
福岡城に天守閣はあったのか――。多くのインバウンド(訪日外国人)で沸く福岡市で議論が再燃している。きっかけは市が期間限定で実施している「幻の天守閣」のライトアップ事業だ。新たな観光名所を望む地元経済団体などが天守閣復元に向けたはずみにしようと期待感を示すが、存在を証明する決定打はなく論争は続きそうだ。 【戦前の写真も】日本の城 福岡市で桜の満開が発表された4月2日夕。福岡城跡(同市中央区)の天守台に単管パイプで組み立てられた「天守閣」(高さ約14メートル)が七色の光で照らし出されると、多くの花見客が足を止めた。4歳の孫と訪れた60代主婦は「子どもは桜より城のほうが喜ぶ。たまにはこういうのもいいじゃない」と好意的だ。 福岡城は初代福岡藩主の黒田長政と父如水(官兵衛)が築城。1600年の関ケ原の戦いの論功行賞で、筑前(福岡県北西部)に移った直後の01年から7年がかりで完成させた。 城の規模は国内でも有数だ。内郭(41万平方メートル)の中心部分には天守閣を乗せるための基礎である石垣の「天守台」が鎮座。それを本丸、二の丸、三の丸で囲む4層構造に47の櫓(やぐら)などが配置されていた。江戸幕府が倒れ、1871年の廃藩置県後は、県庁や陸軍駐屯地として利用され、大半の建物が解体や払い下げなどで失われた。 戦後になって保存、整備の動きが活発化し、城跡は1957年に国史跡に指定。市はシンボルとしての活用を目指し、2014年には「福岡城跡整備基本計画」を策定し、15年間で約70億円をかけて復元・修復することを決めている。 そうした中で、長らく論争になってきたのが天守閣の有無だ。立派な天守台はあるが、築城直後の1646年に城を描いた「福博惣絵図(ふくはくそうえず)」に天守閣の姿はなく、その後の史料にも記述や描写がないことから、天守閣は存在しないということが定説となった。市の基本計画でも、天守閣は5段階評価で可能性が最も低い「復元が極めて困難な建造物」に分類される。 一方、天守閣存在説も根強く残る。1980年代以降に出版された「黒田家文書」「細川家史料」などにある記述が専門家の目にとまり浮上した。小倉藩主が家臣に宛てた1620年の書状には長政が「天守」や家屋敷を壊した話などが記されており、いったんは天守閣を造ったが、主君の徳川家康に気兼ねし十数年で取り壊したというものだ。 「400年の時を超えて福岡城の天守閣がよみがえります。ただし、夜だけですけども」 論争を再び活性化させたのが、高島宗一郎市長が今年1月の記者会見で突如発表したライトアップ事業だ。事業費は約6250万円で、市民に地元の歴史に興味・関心を持ってもらうとともに、観光での集客を狙う。夜間の点灯は5月末までで、天守閣の骨組みは台風シーズン前に解体する。天守閣のデザインは各地のさまざまな城を参考にして造られた。 3月には福岡商工会議所が、有識者らを交えた「福岡城天守の復元的整備を考える懇談会」を開始。ライトアップによる復元機運の高まりを期待し、関係者から「史料さえ見つかれば」との声も上がる。 3月末のライトアップ点灯式に出席した福岡商議所の谷川浩道会頭は「福岡にお越しになった方々が『太宰府天満宮にしか行くところがない』『福岡市の中に行くところがあれば』との声が多く聞かれてきた。幻(の天守閣)が現実になればいいなと心から思っている」と語気を強めた。 天守閣に関する本格的な発掘調査について高島市長は「慌てなくていい」との立場だが、地元経済関係者は「天神地区の大規模再開発など全国に先駆けてやっている事業もある。天守閣も『前例がない』という理由で終わらせず、検討してほしい」と期待は尽きない。【竹林静】