行幸準備に前田家奔走 富姫の嫁ぎ先八条宮家で 郷土史学会の横山副会長解読
●能楽師や舞役者の手配記す 江戸時代初期、加賀藩3代藩主前田利常の四女富姫(ふうひめ)の嫁ぎ先である京都・八条宮家へ後水尾(ごみずのお)上皇が行幸する際、前田家が準備に奔走したことが成巽閣(金沢市兼六町)所蔵の古文書で分かった。皇族の八条宮家や京都所司代の要望に応じ、人気の能楽師や舞役者を手配したことなどが記されている。調査した石川郷土史学会の横山方子副会長は「朝廷や公家対策として、加賀藩がきめ細やかに対応したことを知ることができる貴重な資料だ」と話した。 古文書は「京都御用書状跡書」で、行幸の経緯など加賀藩の家臣らに宛てた書状がまとめられている。前田家の重臣で京都での業務を担った今枝民部直恒らが1648(慶安元)年から翌年にかけて記した。 古文書には後水尾上皇の中宮・東福門院和子からの伝言で、上皇が能を希望し、加賀藩召し抱えの能太夫で金春(こんぱる)流の竹田権兵衛に演じさせるように促したと記されている。 横山さんによると、権兵衛は「加賀百万石の能役者」として京都でも名が知られ、上皇は権兵衛の存在を知っていたと指摘。横山さんは「前田家にとってこの上ない名誉だったに違いない」と話した。 利常の指示で、京都所司代への相談も欠かさなかったことも記され、所司代が能の後、幸若(こうわか)舞の幸若八郎九郎の出演を求めると、大慌てで手配したことも書かれていた。 行幸の様子は古文書に記されていないが、利常が富姫らに贈った褒美の目録がつづられており、無事終えたと推察する横山さんは「前田家で初めて皇族に嫁いだ富姫をもり立てようと人も金も投じた。加賀藩の末永い繁栄を期す利常の姿が思い浮かぶ」と話した。古文書の詳細は24日に市内で開かれる石川郷土史学会の例会で発表する。