主催者が証言した“監督”清原和博氏の球界復帰第一歩の裏側
日米の元プロアマ野球選手の再チャレンジを支援する「ワールドトライアウト2019」が30日、神宮球場で開催され、3年前に覚せい剤取締法違反で逮捕され、執行猶予付きの有罪判決を受けた清原和博氏(52)が「トライアウト監督」として復帰した。2試合、若い選手のプレーをベンチで指揮した清原氏は、何度も感謝の気持ちを口にした。主催者の元東大野球部の加治佐平CEOは、「会う度に笑顔を増えて元気になってきた」と証言。薬物治療のプログラムと執行猶予期間もまだ終わっていないが開けていないが、着実に本格的な社会復帰へ向けての歩みを見せた。今年一度で「ワールドトライアウト監督」は卒業となるが、次はNPBでの指導者を目指すという。
「宝物の1日。神宮の打席に立ってみたかった」
午前10時、青天の神宮球場。 PL学園の後輩で今回のトライアウトをサポートしてくれる入来祐作投手コーチ、片岡篤史打撃コーチが紹介され、マウンド付近で並び、続いて「ゼネラルマネージャー(ここでは監督の意味)、清原」と、英語のアナウンスがあった。 2000人ほどのファンからは大きな拍手が起きたが、清原はなかなか出てこない。スタンドも報道陣もざわついた。だが、数分後に、スタッフに促され、「ワールドトライアウト」のノースリーブ型の赤と濃紺のツートンのユニホーム姿で、ベルトの上にせりだしたお腹を揺するようにグラウンドに現れた清原氏は、いきなり打席に立ち、マウンドからバックスクリーンに目をやった。 「久しぶりに神宮球場に入れたのでうれしかった。自分の2000本安打が神宮だったので特別な思いがあります。テレビで(神宮を)見る機会は多いのですが、現役を離れて数年…、なかなか(神宮球場の中に入る)チャンスがないので、ちょっと打席に立ってみたいな、と。これからの自分のために」 2004年6月4日。巨人時代の清原氏は、ここ神宮での第1打席にヤクルトのベバリンからセンター前ヒットを放ち2000本安打を達成した。不振や右膝の手術などの挫折を乗り越えたプロ19年目の偉業だった。その思い出の地で本格的な再出発をスタートするのも運命的なのかもしれない。 日米の元プロアマの26選手が集結した「ワールドトライアウト」では午前、午後と2試合、試合形式が行われたが、一塁ベンチに陣取った清原氏は、投手交代の度にベンチを出て、審判に告げた。神宮は底冷えするほど寒かったが、必ずジャンパーを脱いでフィールドに出た。 「投手交代を告げることも初めての経験なので緊張しました」 背番号は西武時代につけた「3」。だが、これは手違いで希望したのは「70」だったという。 「3も5も付け飽きました(笑)。監督の肩書は初めて。監督と言えば、僕が彼らのように野球ができなくなった時に拾っていただいた仰木監督の付けた70を付けたかった」 2005年に巨人から戦力外を通告された清原氏にセカンドチャンスを与えてくれたのが、当時、オリックスのシニアアドバイザーだった仰木彬氏だった。清原氏のオリックス入団を見ることなく仰木氏は癌で他界した。以来、恩人と慕う清原氏らしい思いである。 途中、西武時代にチームメイト、監督として公私において親交の深かった東尾修氏との公開トークショーがあった。 若い頃に、キャンプイン前日の門限破り、罰金(200万円)を課せられ、東尾氏が森監督と交渉して半額にしてもらった話や、自打球で指を骨折しながら戦い抜いたルーキーイヤーの広島との日本シリーズの思い出や、「年齢的に一番上になり若手が自分に気をつかい、チームがいい雰囲気じゃなくなったので自分の役割は終わったと感じ、小さい頃から憧れだった巨人のFAで行った」などのFA裏話などを笑いを交えながら披露した最後に東尾氏は、観客にこう呼びかけた。 「いずれNPBのユニホームきて本当に復帰できるように応援してやって下さい。よろしくお願いします」 途中、東尾氏は、感極まって言葉がつまった。 客席からは拍手が起き、「待っているぞ!」の声が飛ぶ。 「こういう声援をいただいたのは、これからの自分の人生にすごく力になる。そういう目標(NPB復帰)をもって頑張っていきたい」 清原氏は満面の笑顔で言った。