高身長のオーナーの元、小さなビートがさらに小さく見える
日本独特の自動車規格である「軽自動車」。維持費が安く、実用的なクルマが多い一方で、スポーツカーやオープンカーなど趣味的なクルマも数多く開発されてきた。マツダAZ-1、ホンダビート、スズキカプチーノの「平成ABCトリオ」は去りゆく平成を代表した趣味的軽自動車といえるだろう。 【画像12枚】ヨーロッパ車が並ぶ修理工場にあるビート。日本独特の軽自動車文化をアメリカで。ビートが小さいクルマなのは重々承知している。それでもアメリカの風景の中に入れてしまうと、その姿はおもちゃのようにさえ見えた。ヨルスさんの運転するビートはクルマの少ない裏通りをキビキビと走っていた 【ニッポン旧車の楽しみ方第49回 ホンダ ビート】 大学の街、カリフォルニア州バークレー市。街の雑踏から遠ざかった路地の、小さな建物の前にそのホンダビートはあった。建物の中はオールドスタイルの修理工場。他に日本車の姿はなく、ヨーロッパのクルマだけが並んでいた。 「ようこそ! 元気かい?」 明るい声の主はこのビートのオーナー、ヤーン・ヨルスさんだった。ヨルスさんは背が高い。その脇では、小さなビートが余計に小さく見えた。 「このビートは1年くらい前に自分で輸入したんだ。実はこれが2台目。1台目はあんまり程度がよくなかったからさ、いいのを探していたんだ」 ヨルスさんはイタリア旧車の修理を得意とするメカニックだ。アメリカでは輸入旧車といえばポルシェやBMWなどのドイツ車が圧倒的に多い。イギリス車がそれに続き、イタリア旧車は決してメジャーな存在ではない。 「15歳で初めて買ったクルマが1956年式アルファロメオ・ジュリエッタだった。中古の未完成車で、マイナーなクルマだから身近に直せる人もいなくて、自分でレストアするしかなかった。そうしたら、レストアの様子を見ていたんだろうね、『アルファロメオを修理してくれないか』って訪ねてきた人がいた。それから段々とイタリア車の修理を頼まれるようになったんだ」 古いものを丁寧に直すことが性分にあっていたらしく、ヨルスさんはどんどん旧車の世界へと傾倒していった。旧車の輸入も自分で行うようになった。好きなイタリア旧車はもちろん、80年代に誕生した日本車の、日本国内専用車種にも興味が湧き始めた。 「この前まで日産フィガロも持っていたんだよ。走りがよいクルマじゃなかったから手放したけど。ビートのエンジンは8500rpmまで回るからさ。それで欲しかったんだ。ホンダのフォーミュラ1を思い出すだろ」 日本国内でパイクカーが流行りだす少し前、アメリカではホンダが現地生産を開始(82年)、間もなくGMとトヨタによるNUMMIも稼働(84年)するなど、日本メーカーの北米戦略は「アメリカ製日本車」へとシフトしていた。ビートは日本国内市場専用の軽自動車。 当然アメリカへは正規輸出されなかったが、「中古車輸入禁止の25年」が過ぎてアメリカへ個人輸入されるようになった。日本の外へ出てしまえば極端な希少車となるゆえ、適切に修理するのは職人技。もちろんヨルスさんはそれを自分でできる。「希少車はお手の物」だからだ。 初出:ノスタルジックヒーロー2018年12月号 Vol.190 (記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)
Nosweb 編集部