テリーに誓った「行けるところまで電流爆破」4・14から未来へ…シン・大仁田厚 涙のカリスマ50年目の真実(60)
現地時間4月5日(日本時間6日)、米フィラデルフィアの2300アリーナで開催されたデスマッチの祭典「バトルグラウンド・チャンピオンシップ・レスリング」大会に「日本のデスマッチ・レジェンド」として招待された大仁田厚。 会場となった2300アリーナは、かつてのECWアリーナ。ECWは大仁田のFMW時代のビデオテープをサブゥがアメリカに持ち帰ったことがきっかけで発足したデスマッチ団体とあって、「邪道」は“ホーム”のような大声援を浴びて大暴れした。 そして、その5日後に向かったのが、あの「兄貴分」の墓所だった。 10日、大仁田が訪れた米テキサス州アマリロの静謐(せいひつ)な墓所に眠るのは、テリー・ファンクさん(2023年死去、享年79)。16歳でのレスラーデビューから50年。思えば、大仁田は全日本プロレス時代に自身の才能を見い出してくれたテリーさんのレスラー人生をなぞるような半世紀を過ごしてきた。 ジャイアント馬場さん譲りの正統派のプロレスにデスマッチファイターとしての横顔。さらに引退、復帰の繰り返しと、テリーさんとの共通点は数多い。 この日、多くの花が手向けられた恩人の墓前に座り込んだ大仁田は墓石をなでながら「テリーさん、久しぶりです。お墓参りが遅れて申し訳ありません」と語りかけた後、「(93年5月5日の)川崎球場での対決の後、『オオニタはこんなに力が強かったんだ。かわいい弟分だと思っていたら、立派なレスラーになっていたんだな』って言ってくれたこと忘れません」と涙をこらえながらポツリ。 「俺は今年、デビュー50周年を迎えました。行けるところまで電流爆破をやってやろうと思ってます。でも、記念大会では、本当にテリーさんとリングに立ちたかった。『スピニング・トーホールド』が会場に鳴り響いて、テリーさんが入場してくるところが、もう一度見たかったんですよ…」と震える声で報告したという。 そして、師匠のテリーさん同様、自身の生き様について「俺は目立ってナンボだと思っている」と堂々と言い切る言葉の裏には、原点となる体験があった。 まだ海のものとも山のものとも知れないFMWの創設期。地方大会で行った先で出会った老婦人が聞いてきた。 「あんた、名前、なんて言うの? 私は(ジャイアント)馬場さんと(アントニオ)猪木さんしか知らないのよ」―。 「そんな、おばあちゃんが俺の試合を見た後、『あんた、一生懸命やってるね。これから応援するよ。名前も覚えたし』って言ってくれたんだ。それが俺の『大仁田厚って名前を一般社会に広く知らしめたい』って思いの原点だよ」と回顧。 「FMWの頃は俺が有名にならないと客は入らないっていう危機感まみれだった。名前を売らなきゃという思いに突き動かされて、大河(ドラマ)にも出たし、何事もチャレンジだと思っているから、50年の間に敗血症で死にかけたって、あらゆる試合をやり続けた」と続けると「そりゃ、ヘコむことも、心が折れそうになることも、投げ出したくなる時もあったよ」とポツリ。 「でも、一瞬、後悔という言葉が通り過ぎることもあるけど、それが蓄積することはないんだよ。挫折して、どん底を這いずり回っていたら、いつの間にか次のチャンスが転がってくる。それが俺の人生だったかも知れない」―。 そう言って、ニヤリと笑うと「まだまだやりたいことはたくさんある。生きてこそだと思うんだよ。『大仁田厚』っていう存在をどんな形にしろ歴史上に残したいと思っている。どんな有名人でも亡くなったら忘れられていく。俺には忘れられる恐怖があるから生きている限り『大仁田厚』として生きて、『大仁田厚』をやり続けるしかないと思っている」ときっぱり。 「たまに俺みたいなのはポックリ死んだ方がいいとか思うこともあるけど、まだまだリングに上がっているのが楽しいんだよね。俺には満足って言葉がないんだよ。自分が面白いと思うことがある限り全部、やりたい」と笑顔を見せた66歳は「とにかく『大仁田厚』という人間が生きていたという証(あかし)だけは残したいと思っている。これからどれだけ生きていけるか分からないけどね」と、目をギラリと光らせた。 レスラーデビュー50周年のメモリアルデーにあたる4月14日、横浜・鶴見青果市場で行うFMWE「第11戦春大会~REBORN~」大会のメインイベントでは、盟友・雷神矢口、リッキーフジと組んでの「邪道軍」としてリングへ。 3人とも全日本プロレス退団組の「はぐれ全日本」石川修司、ヨシ・タツ、ブラックめんそーれの3人と対戦するメモリアルマッチ「“大仁田厚デビュー4・14記念日のお祝いに爆破全部やります”地獄のデスマッチ7」を敢行。これまでに自身が考案し続けて来た「電流爆破」アイテムを“全部乗せ”した一戦となる。 50年前の1974年4月14日、全日本プロレス後楽園ホール大会の佐藤昭雄戦でデビューした日から、ちょうど50年。まさに命がけの危険過ぎる一戦となる。 「七転八倒しながらの50年だったけど、この半世紀、俺なりに一生懸命生きてきた。50周年の区切りと言うけど、本当は俺、そんなものどうでもいいんだよね。『今日の試合、良かったな~』って思っても、すぐに次に何をやるかが頭を駆け巡ってしまって。多分、50周年のメモリアルマッチもそうだと思う。人生、すぐ次に何かをやらなきゃって、俺の人生って、その繰り返しなんだと思う」―。 そう言って記念すべき日のリングに向かう「涙のカリスマ」。その伝説はこの日、50周年を迎えるが、8月には「あそこしかないんだよ」というFMW時代に5万8000人を動員した「聖地」川崎球場(現・富士通スタジアム川崎)での50周年メモリアルマッチをもくろんでいる。 レスラー生活50周年を迎えても、大仁田厚の人生はまだまだ終わらない。この一瞬こそが新たな始まりの時。「涙のカリスマ」は記念すべき4・14から、また一歩ずつ誰もマネのできない孤高の道を歩んでいく。(取材・構成 中村 健吾)=終わり= * * * * * * 「スポーツ報知」では4月14日にデビュー50周年を迎える「邪道」大仁田厚のこれまでのプロレスラー人生を4か月にわたって追いかけて来ました。66歳となった今も「涙のカリスマ」として熱狂的な支持を集める一方、7度の引退、復帰を繰り返し、時には「ウソつき」とも呼ばれる男の真実はどこにあるのか。連載「シン・大仁田厚」では、本人の証言とともに「大仁田厚」というパンドラの箱を開けていきました。今回の連載は7月、書籍化の予定です。
報知新聞社