「時間が止まった...」はだかで遊泳中に「子連れの巨大クマ」に遭遇、命の危機を免れた男性が語る「恐怖の瞬間」
大自然の中で遭遇した決死の事態が、人間なんて取るに足りない存在だと教えてくれた
アメリカでは昨年、大統領選が終わって、今は誰もがこの国の未来を案じている。だがそこにはある種の人間中心主義、つまり自然との関わりにおける私たち人間の思い上がりがあるのではないか。筆者は先頃、そこのところを改めて自然から教えられた。 【動画】「男に覗かれてる...」入浴中の女性が暗闇にカメラを向けると「まさかの危険生物」の姿が 「男よりはマシ」と話題に それは最高に素敵な秋の一日だった。空はどこまでも青く、黄色く染まったポプラの葉がそよ風に舞っていた。 パートナーのナタリーと私は、カヌーでブラックフット川を下っていた。カヌーはいい。日頃の憂さを忘れて自然に溶け込める。パドルから滴る水に差す日の光。時に豪快、時に優しい水の音。川岸の湿った土や木々の匂い......。 しばらく進んだところで一休み。シーズン最後のスキニーディップ(全裸での遊泳)に挑んだが、水が冷たいのですぐに川から上がり、体を拭きつつ岸辺に転がる小石に目を転じた。珍しい石との出合いも、こういう川下りの楽しみの1つだから。 ハート形の石、鳥の形をした石、人の顔みたいな石。楕円形、三角形、あるいは卵形の石。赤みがかった石、エメラルドグリーンの石、カナリア色の石。 拾って、どれを持ち帰るか決めるのに夢中で、私たちは対岸でカラスが耳障りなほど大きな声で鳴き出したのに気付かなかった(ちなみにナタリーは地質学者だ)。
パンツも履いていないまま「あるもの」を握り締めた
やがて何か野獣みたいな声が聞こえ、茂みの奥から大きな動物が向かってくる気配がした。牛かと思ったけれど、違った。対岸に姿を現したのは巨大な雌のハイイログマと2頭の子グマ。 嘘だろ、と思った。恐怖が腹の底に突き刺さり、時間が止まった。川を挟んでいても、距離はざっと30メートル。ハイイログマの観察時に推奨される90メートルよりはるかに近かった。 私はナタリーの腕をつかみ、「クマだ」とささやいた。彼女は目線を上げ、声は出さずに「あっ」と叫んだ。 私はまだパンツもはいていなかったけれど、クマ撃退用のスプレーを握り締めた。そしてゆっくり、彼女と一緒に後ずさりし始めた。 と、不意に母グマが後ろ足で立ち上がり、頭を左右に振った。あっ、気付かれたか。 もしも本気で戦闘モードに入れば、ハイイログマは時速60キロ弱で突進できるという。幅30メートルくらいの川なんて、あっという間に越えてくる。 あのとき私は腰から下は素っ裸で、顔は恐怖にゆがんでいたはず。片手にはクマ撃退用のスプレー、片手には拾ったばかりの小石を握り締めていた。私たちの不運を面白おかしく伝える新聞の見出しが、なぜか頭に浮かんだ。
人間の限界を感じた
しかし、母グマは再びしゃがんで川の水を飲み始めた。それから子グマたちを呼び集め、一緒に森の中へ戻って行った。助かった。私たちはカヌーに乗り込み、しばし無言で川の流れに身を任せた。 ああ、人間なんて取るに足りない存在なんだ。そのことを、私は肌で感じていた。 悔いはない。むしろ気付かされた。家族や仕事、あるいはこの国の政治を、私は日々思ってきたが、実はもっと大きな文脈、このかけがえのない青い惑星の文脈で考える必要があったのではないか。 あのハイイログマは野生そのもの。遭遇したときに感じた恐怖や人間の限界。あれで私は目覚めた。そしてこの世界を、まったく違う目で見られるようになった。
セス・シュティア(環境科学者、冒険家)