映画『オッペンハイマー』留学、出会い、第二次大戦から冷戦へ…オッペンハイマーの人生を辿る
劇場での映像体験を追究するクリストファー・ノーラン監督がキリアン・マーフィーを主演に迎え、物理学者J・ロバート・オッペンハイマーの半生を描いた『オッペンハイマー』がついに日本公開。 【画像】映画『オッペンハイマー』で描かれる彼の人生 キリアンをはじめ、エミリー・ブラント、マット・デイモン、ロバート・ダウニー・Jr.、フローレンス・ピュー、ケネス・ブラナー、ラミ・マレック、ジョシュ・ハートネットら錚々たる俳優陣を迎えた本作は、すでに世界興行収入が10億ドルに迫る特大ヒットを記録、実在の人物を描いた伝記映画として歴代1位となっている。 第二次世界大戦中の「マンハッタン計画」での原爆の開発過程とともに、イギリス・ドイツ留学時代から大戦後の“冷戦”まで、ノーラン監督らしく時系列を巧みに前後させながらオッペンハイマー(キリアン・マーフィー)の内面に迫っていく本作をより深く理解するべく、その人生を年表でふり返った。 オッペンハイマー年表 映画では、オッペンハイマーの視点から語られるシーンはカラー映像(しかも脚本はオッペンハイマーの一人称で書かれた)で表わされ、冷戦下のアメリカ原子力政策でカギを握る人物ルイス・ストローズ(ロバート・ダウニー・Jr.)を中心とする場面はモノクロ映像と、視覚的な描き分けがなされている。 1904年4月22日 ドイツからのユダヤ系移民ジュリアス・オッペンハイマーとエラ・フリードマンの長男として、ニューヨークで誕生。 1922年 | 18歳 ハーバード大学の化学科に入学。 1925年 | 21歳 ハーバード大学を3年で卒業、イギリスのケンブリッジ大学に留学。 1926年末 | 22歳 客員教授の理論物理学者ニールス・ボーア(ケネス・ブラナー)に勧められ、ドイツへ。 ドイツ・ゲッティンゲン大学のマックス・ボルン教授に研究を評価され、同大学に移籍。 1927年~1928年 | 23歳~24歳 博士号を取得してアメリカへ帰国。ハーバード大学、その後カリフォルニア工科大学でポストドクター(博士)研究員として研究を進める。 1929年 | 25歳 カリフォルニア州立大学バークレー校で准教授を務める。同大学の助教授で、社交的な物理学者のアーネスト・ローレンス(ジョシュ・ハートネット)と意気投合する。 1936年 | 32歳 カリフォルニア州立大学バークレー校准教授から教授に昇進。共産党員ジーン・タトロック(フローレンス・ピュー)と出会い、恋に落ちる。 1938年 | 34歳 当時としては画期的なブラックホールや中性子星の研究を行う。 1939年8月 | 35歳 既婚者だった植物学者の“キティ”キャサリン(エミリー・ブラント)と出会う。 1939年9月 ナチスドイツがポーランドに侵攻、第二次世界大戦が勃発する。 1940年 | 36歳 キティと結婚する。 1941年 | 37歳 FBIが共産主義者との関わりを疑いオッペンハイマーの捜査を開始。 1941年12月 アメリカが第二次世界大戦に参戦。 1942年 | 38歳 ルーズベルト大統領の命令のもと極秘の核兵器開発プロジェクト「マンハッタン計画」が始動。「マンハッタン計画」の最高責任者、陸軍将校レズリー・グローヴス(マット・デイモン)から参加を打診される。 ニューメキシコ州にロスアラモス研究所を建設、同・初代所長に任命され、開発チームのリーダーを務める。名だたる科学者たちをロスアラモスに招聘し、家族ごと移住させた。 後に水爆研究・開発で知られるエドワード・テラー(ベニー・サフディ)らを迎え入れた。 1945年7月16日 | 41歳 5月にナチスが降伏した後も、次は日本に降伏をうながすために原子爆弾の研究は続けられ、人類史上初の核実験「トリニティ実験」は成功を収める。 このときインドのヒンドゥー経典「バガヴァッド・ギーター」の中の一節、「我は死なり、世界の破壊者なり」という言葉を思い起こしたという。 1945年8月6日 | 41歳 広島に原子爆弾(通称リトルボーイ)が投下される。 1945年8月9日 | 41歳 長崎に原子爆弾(通称ファットマン)が投下される。 惨状を知ったオッペンハイマーは激しい後悔と自責の念に駆られ、核兵器の開発に懐疑的な姿勢を示すようになる。 1945年8月14日/日本時間8月15日 日本がポツダム宣言を受諾。9月2日に降伏文書に調印し、第二次大戦が終戦。その後、東西冷戦時代に移行していく。 1945年10月 | 41歳 原爆投下を命じたトルーマン大統領(ゲイリー・オールドマン)とホワイトハウスで初対面。「私は自分の手が血塗られているように感じます」と話すと、「泣き虫科学者」と影で呼ばれた。 1947年夏 | 43歳 アメリカ原子力委員会(AEC)の委員長ルイス・ストローズによりプリンストン高等研究所3代目所長となり、アルベルト・アインシュタイン(トム・コンティ)と再会。 その後AECのアドバイザーとなるが、核兵器の国際的な管理を呼びかけ、水爆をはじめとする核開発に反対の意を示す。 1950年~53年 冷戦を背景にジョセフ・マッカーシー上院議員らが「赤狩り」を強行。共産主義への恐怖からアメリカ国民から支持を得る。 1954年 | 50歳 ソ連のスパイ容疑をかけられ、オッペンハイマー聴聞会が開かれる。 水爆を推進していた原子力委員会(AEC)委員長のストローズの怒りを買い、FBIも協力し、オッペンハイマーに「共産主義者」のレッテルを貼る。 聴聞会でスパイに仕立て上げられたオッペンハイマーは、アイゼンハワー大統領命により一切の国家機密から隔離、政府公職からの追放が決定。以後、オッペンハイマーは危険人物と断定され、FBIによる尾行や盗聴など、晩年まで厳しい監視下に置かれる。 1959年 アメリカ上院で、アイゼンハワー大統領により商務長官に指名されたストローズの証人公聴会が開かれる。 1961年 | 57歳 ジョン・F・ケネディが大統領に就任。オッペンハイマー支持者たちがケネディの側近となり、オッペンハイマーの公的名誉を回復させようとする動きが出始める。 1963年 | 59歳 原子力委員会(AEC)が「科学者に与える最高の栄誉」として、オッペンハイマーにフェルミ賞の授与を決定する。 1965年 | 61歳 喉頭がんが見つかる。 1966年はじめ | 62歳 プリンストン高等研究所に辞表を提出、所長を辞任。アインシュタインに次いで名誉教授となる。 1967年2月18日 | 62歳 ニュージャージー州プリンストンの自宅にて死去。 2022年12月16日 米エネルギー省のジェニファー・グランホルム長官が、オッペンハイマーを公職から追放した1954年の処分は「偏見に基づく不公正な手続きだった」として取り消しを発表。オッペンハイマーにスパイ容疑の罪を着せたことを公的に謝罪した。 『オッペンハイマー』は全国にて公開中。IMAX®劇場全国50スクリーン、Dolby Cinema®全国10スクリーン、35mmフィルム版109シネマズプレミアム新宿にて同時公開中。
シネマカフェ シネマカフェ編集部