不適切だった? 広島のバブル時代へタイムスリップ! 財テク・ディスコ・スーパーカー…
令和の時代なのに突然、「バブル」「バブル経済」という言葉を見聞きする回数が増えました。2024(令和6)年2月22日、東京株式市場の日経平均株価(225種)が約34年ぶりに史上最高値を更新したニュースの見出しは「バブル期を超す」でした。また、話題となっているテレビドラマ「不適切にもほどがある!」(RCCなどTBS系)は、バブルが始まる1986(昭和61)年と現代をタイムスリップで行き来する物語です。今回の「資料室発」では中国新聞の過去の紙面をたどり、バブル時代の広島にタイムスリップします。 【画像】新聞紙面で振り返る「不適切だった? 広島のバブル時代へタイムスリップ!」 まず、公式な「バブル経済」の定義を見てみましょう。東京株式市場の史上最高値更新を伝える2024年2月23日付朝刊の用語解説です。 内閣府が定義した1986年12月~91年2月の景気拡大期。低金利を背景に不動産価格や株価が急騰し、個人や企業の資産が増大した。金融機関の融資も膨らんだ。根拠が乏しいまま資産価格が上がることから泡を意味する「バブル」になぞらえた。崩壊後は銀行の不良債権問題が深刻化。企業の倒産が相次ぎ、長い不況に陥った。 1990年代半ば以降に生まれ、バブルを経験していないZ世代へのアンケートなどによると「バブル経済」で連想するのは「個人や企業の資産増大」に伴う「華やかさ」や「株価や地価高騰」に加え「ワンレンボディコンとディスコのお立ち台」が挙がるそうです。 まず「華やかさ」の点から、広島の企業を振り返ってみます。「最高級スーパーカー登場 広島/350馬力 最高速度290キロ/フェラーリ・テスタロッサ/〝夢を満載〟2450万円」(1986年7月22日付、夕刊)の記事は、近年にはないバブルっぽさを感じさせます。 カー用品販売会社が企業のイメージカーにテスタロッサを決め、発表レセプションを開いたというニュースです。2450万円という金額はもちろん、イタリア製で月産わずか35台の世界最高クラスのスーパーカーの1台が広島にあったのは、まさに「華やか」です。記事が出た1986年7月は公式定義ではバブル前ですが、世の中は既に右肩上がりに走り始めていたことがうかがえます。 次にイメージされる「株価や地価高騰」については、個人の株式売買への関心の高まりが分かる記事があります。1986年4月6日付くらし面の「財テク感覚 家庭に浸透/女性向け金融講座が活発化 広島地方」です。「くらし面」に掲載されているところが、時代を色濃く反映しているといえます。 中国新聞のくらし面は曜日ごとにテーマがあり、社会ニーズに合わせマイナーチェンジしています。1986(昭和61)年3月時点では月曜日から順に「健康」「教育」「ファッション」「住まい」「レジャー」「シニアライフ」「趣味」となっていました。 これが1986年4月、日曜日のテーマが「趣味」から「けいざい」に代わりました。その第1回の記事が「女性向け金融講座が活発化」です。暮らしの中の大きな関心事の一つに、投資などの経済話題が入ってきたわけです。 話はそれますが、現在の「投資」に当たる言葉は、バブル当時「財テク」と呼ばれていました。1970年代から80年代前半ごろの紙面では「利殖」が主で、バブル前夜の1985(昭和60)年から「財テク」の言葉が急増していきます。 株とともに高騰したもう一つ、土地の方はどうでしょう。こちらは1988(昭和63)年、多くの土地長者を誕生させています。国税庁にはかつて、一定額以上の納税者を公表する高額納税者公示制度、通称「長者番付」がありました。1988年分の長者番付を報じる見出しは「高額納税者/土地売却、100位中70人/財テク反映 株も17人」(1989年5月2日付、朝刊1面)です。中国地方で公示されたのは4060人、上位10人中7人までが不動産の譲渡所得者でした。数字から見ても「土地は金なり」がはっきりと分かります。 最後に「ワンレンボディコンとディスコのお立ち台」を 見ていきましょう。筆者の記憶も踏まえて解説すれば「ワンレン」とは前髪から後ろまでまっすぐに切りそろえた髪型で、ワンレングスの略。ロングヘアが流行していました。「ボディコン」は密着する素材で作られた体型を強調する服装で、ボディ・コンシャス・スタイルの略です。原色系のワンピースが主流だったでしょうか。 当時の広島のディスコ事情は「変わるディスコ/『踊りだけ』はもう古い/広島市内ただ今8店/客層分化『おしゃれ重視』へ」(1989年3月23日付、夕刊)に詳しく出ています。 記事によると「ディスコブームが訪れたのは2年前」の1987(昭和62)年で「昨年だけで2店が相次いでオープン」しています。それぞれが独自色を出すため、店内装飾を中世ヨーロッパ風にして豪華さを演出する新興店、学生向けに料金を抑える店、ステーキやワインで本格的なディナーと組み合わせるサービスなど、しのぎを削っていました。 この「華やか」「資産高騰」「ディスコ」のバブル時代に陰りが見えてくるのが1990(平成2)年の初頭からです。前年の12月末、東京株式市場の日経平均が史上最高値の3万8957円を付けてから一転、大幅値下げで始まります。この年の株価はずるずると下げ続け、一時は2万円を割り、12月28日の大納会は2万3848円と4割近く下落しました。 実は、景気の上昇中には「バブル経済」とは呼ばれていません。株価が下落し始めた後、1990年に初めて「バブル(泡)」の言葉が新聞に登場してきました。中国新聞紙面で確認できる「バブル」が出た経済記事では、1990年8月29日付「株ネット裏」というコーナーの「求められる冷静な分析力」に「プラザ合意以降の円高・低金利に踊った、いわゆる〝バブル相場〟にはっきりと別れを告げなければならない」とあります。 そしてこの年、自由国民社が選定する「'90日本新語・流行語大賞」の流行語の銀賞に「バブル(泡)経済」が選ばれました(1990年12月1日付、夕刊)。ちなみに、流行語の金賞は「ちびまる子ちゃん」、新語の金賞はコンピューターのあいまい理論を表す「ファジー」です。 バブル経済の期間は「1986年12月~91年2月」というのが現代の定義ですが、渦中にいる時はまだ、バブルがはじけ飛んだことに誰もが気づいていたわけではありませんでした。 例えば、ディスコは客が激減し、1992(平成4)年には閉店ラッシュを迎えていたものの、当事者に切迫感は見られません。「ディスコ客足 スローテンポ/懸命にフィーバー復活作戦/広島の各店」(1992年2月6日付、夕刊)では「ディスコもナイトレジャーの一つだと思います。以前のような盛り上がりはないにしても、まあまあ安定した状態が続くのでは」という店長の楽観的なコメントが載っています。 それから半年もたたないうち「ディスコ斜陽/全盛時の半数の10店弱/夜の遊びも多様化時代 若者がそっぽ<広島市内>」(1992年6月29日付、夕刊)のまとめ記事が出ました。「フィーバー復活作戦」もむなしく、あっという間に「斜陽」と断じられる状態になっていました。 後世の目で見れば「景気の後退局面ぐらい分からないの?」と感じるかもしれませんが、一般市民だけでなく、専門家でも景気判断は難しいようです。「『バブル景気の山91年1~3月期』/『いざなぎ』に及ばず/経企庁長官」が出たのは、1993(平成5)年1月6日付です。 1986年12月に始まりバブル経済下で拡大を続けた大型景気が下降に向かった転換点(景気の山)は「1991年1~3月期だった」。船田経済企画庁長官は5日の閣議後会見でこんな見方を明らかにした。 これは、景気後退が「91年後半から」としていた従来の経企庁の見方を修正したもので、この結果、今回の景気拡大が約50カ月間と、戦後最長の「いざなぎ景気」(65年11月~70年7月の57カ月間)にはわずかに及ばなかったことになる。 景気の転換点(山と谷)の正式な判断は、学識経験者などで構成する景気基準日付検討委員会が示すが、船田長官はその根拠に景気の転換点を判断する有力指標の景気動向指数(DI)などを挙げており、早ければ今年夏にも開かれる検討委員会でほぼ同様の結論になりそうだ。 この記事から分かる通り、バブル経済が終わって2年を経てようやく「1991年後半ではなく2月まででした」と修正されたのです。 筆者は1991年4月に社会人となった、いわゆる「バブル世代」の滑り込み組です。まだ十分にバブルの名残があり、仕事後に人でごった返す深夜の繁華街に繰り出すと、帰宅のタクシーはなかなかつかまりませんでした。今思うと、もらった給料の多くを飲み代に流し、何を浮かれていたのだろうと赤面しそうです。ドラマ「不適切にもほどがある!」を見ていると、自分がとがめられているように感じる場面があり、ドキッとします。もし、1986年の自分にアドバイスができるのなら「他人に言えない恥ずかしいことはやめときなさい」と言ってやりたいものです。
中国新聞社