『らんま1/2』が2024年にリメイクされた理由 日本アニメの“クィア的視点”をどう捉え直す?
なぜ、いま『らんま1/2』を再度アニメ化するのか
高橋留美子による『らんま1/2』の原作漫画は、1987年から1996年まで『週刊少年サンデー』に連載された。最初のアニメ版は1989年から1992年にかけて、フジテレビ系列で放送されている。 【画像】「いいぞ、もっとやれ」乱馬とあかねが急接近 なぜそれが、2024年に改めてアニメ化されているのだろうか。おそらくそれは、作中で描かれていたジェンダー批評的な内容が、現在の、ジェンダーが世界的に大きな議論となっている時代において、新しく光を当てるべき価値があるからだろうし、同時に、本作が現在に光を当てる部分もあるからだろうと推測される。 筆者自身は20年以上前に、漫画の単行本を全巻持っており、繰り返し読んだ記憶がある。そのときには、楽しくよくできたラブコメという印象であった。しかし、(原作に比較的忠実に作られた、今回の)アニメ版をいま観てみると、「男らしさ」「女らしさ」に対して、周到で論理的な批評が構造化された見事な作品である点に改めて気づかされ、唸らされた。現在に再度アニメ化される必然性はよく分かると感じられた。
ジェンダーに関する主題を意識化させるキャラクターの配置と、ドラマの展開
主人公・早乙女乱馬は、もともと男だが、ある泉の呪いにより、水を浴びると女性になる体質になってしまった。ヒロインのあかねは、女性だが、男勝りの性格で、武道で強くなることを目指している。どちらも、男性でありながら女性的、女性でありながら男性的な性質を(当人の意志に拠るか否かは違えど)持っている、両性具有的でクィア的な設定である。 乱馬と父・玄馬は、修行をし、「最強」を目指している。戦いで強くなることを目指す、いわゆる「男らしさ」を志向する人物であり、それがユーモラスかつ滑稽に見えるように描かれている。2人は修行に出る際に「男らしくなって帰ってくる。もし男らしくなれなかったら、父子そろって切腹あるのみ」と妻・母に宣言してすらいる。あかねが学校に行くと、剣道部主将をはじめとした男たちが、あかねに交際を申し込むために戦いを挑んでくる。戦って勝った者が女性を手に入れるという、トロフィーワイフ的、競争的な男性性のあり方を、滑稽に相対化し批評していると言っていい。 天道家の三人姉妹、かすみ、なびき、あかねは、対照的な性格に設定されている。かすみは、おしとおやかでたおやかな、良妻賢母型。なびきは、蓮っ葉で快楽主義的な女性。あかねは、男勝りの、怒ってばかりの女性であり、男に負けたくないと思って戦いに生きる女性である。 古臭い家父長制的なジェンダー観も描かれている。まず、乱馬とあかねは「許嫁」、すなわち、親が決めた結婚相手である。あかねの父親は、2人に結婚してもらい、道場を継いでもらいたいのだ。武道などは、伝統的かつ保守的なジェンダー観の象徴だろう。 このような人物と設定により、ジェンダーに関連する様々な感情や思想、葛藤や対立のドラマを、軽やかに楽しく展開させているのが、『らんま1/2』だと言える。 たとえば、乱馬が女性になった際に久能帯刀に一方的に愛され恋される立場を経験するなどで、女性としての感情や境遇なども理解していくようになる。また、男勝りで怒ってばかりいたあかねも、男らんまに「笑うとかわいい」と言われ、頬を染めるなど、戦うこと以外の価値や、女性としての自己認識に目覚めていく(お互いの裸を見るなどで、身体や性への目覚めも、序盤で暗示される)。 「男らしい」ジャンルである「復讐もの」のパロディ的な人物である響良牙は、あかねのことを好きになる。男らんまに一方的に惚れ込む九能小太刀という女性キャラクターもいる。中国の伝統的な掟に従い(自由意志や心を通じることではなく)乱馬を夫にしようとするシャンプーや、乱馬のもう一人の許嫁であるが、関西人のようで、力ではなく人間関係や食べ物を用いるなどの「女性的」に落とす作戦を使う久遠寺右京などなど、恋愛・結婚のバリエーションに沿ってキャラクターが造型され配置されている。これらの人物の中でのドタバタラブコメを通じて、愛や結婚にまつわる様々な悲喜劇を伝える。そのような作品のデザインになっている。 一人ひとりの人物は、いわゆる実写映画などのドラマほど大きく変化はせず、一人ひとりの人間に、どんな問題系を象徴させるのかが決まっており、それらを巧みに組み合わせることで作品を展開しているのが『らんま1/2』だろう。このロジカルかつ構造的な設計には、高橋留美子の才能を強く感じる。 パロディやコメディの文法を採用することにより、問題を深刻で重いものではなく、軽くて楽しい印象で提示することに成功している。一部の者は、フェミニズムやジェンダーなどと聞くと、抑圧的で深刻で硬直的だという偏見的な印象を受けるかもしれないが、この作品はそうではなく、柔らかさや笑いの印象を通じてその内容を届けられることにこそ、本作の可能性があるのかもしれない。