戦後広島にあった謎の「ビンゴゲームの店」とは
いきなり個人的な話題で恐縮ですが、先日、とあるイベントでビンゴゲームの司会を頼まれました。縦横に5個ずつ計25個の数字が並び、列がそろうと景品がもらえるあのゲームです。老若男女、ほとんどの人がルールを把握しているので、司会者は細かい説明をする必要がなく気が楽です。ふと、日本でいつビンゴゲームが始まったのか気になりました。「ビンゴ」の歴史を調べてみると、現代とは違う遊び方をされていた実情が浮かび上がってきました。 ビンゴゲーム関連の写真など ビンゴの原形は1530年ごろにイタリアで遊ばれたくじを使ったゲームで、その後、世界中に広まったようです。日本に入ってきた時期をネットで検索してみると「1950(昭和25)年前後」と書かれたサイトが複数ヒットしました。連合国軍占領下の時代で、米国経由の可能性が高そうです。 中国新聞の過去の紙面をたどってみると、1951(昭和26)年12月11日付夕刊に「ビンゴゲーム」体験をつづったコラムが見つかりました。1950年前後で「ビンゴ」(的中)です。以下、句読点と送り仮名は現代風に直しています。 ビンゴゲームというのがある。ビールやら酒が景品につく。さきごろ1枚買ったら、いきなりビールが当たった。気をよくしてもう1枚買ったら、またまた2等黒ビールが当たった。それからというもの、20円とひまがあれば夢よもう一度とカードを買うが、以後さっぱり。それはタナの上の賞品に目がくらんでゲームに執着しているからなんだ。 「あの人をみてごらん、たんたんとおハジキの石をおいているだろ。だからビール2、3本も取ってるんだ。カケゴトはすべてムキになってはダメだ」。友人に忠告されて、それからというものは賞品ダナの上をみないでやることにした。しかし一向にそのご利益はあらわれぬ。結局、あてようと思って当たらぬ、無心であって当たらぬ。では一体いつ当るのかと詰めよれば、当たるときには当たるサと涼しい顔。 ルールは現代と同じだと推測できます。カードに穴を開ける代わりに「おハジキの石」を置いています。仲間内の親睦ゲームではなく常設店のような描写です。記事中ではビンゴゲームを「カケゴト」、つまり、ギャンブルと位置づけていることが分かります。 当時の物価は現在の20分の1程度です。計算すると20円のビンゴカード1枚は今の400円に当たります。1951年のビール大瓶は1本120円前後と高く、景品は今なら約2400円。「ゲーム」と名がついているものの、なかなかのギャンブル具合です。 街中に店舗があって遊技料を支払い、景品を持ち帰るという娯楽は、どことなくパチンコに似ています。さらに記事を探していくと、パチンコとビンゴを同列に挙げている記事がありました。 1952(昭和27)年9月12日付の投書コーナーに「広島市の復興の在り方」の見出しで、市民の声が掲載されています。街づくりについての苦言です。 10月には世界連邦国際会議が、また近く世界仏教代表者会議が平和都市の意義を体して広島で開催されますが、その時平和都市広島を胸に描いて来た諸外国代表から、まず駅前に並ぶパチンコ、ビンゴの類を眺め、あれは何ですかと尋ねられた時、われわれは何と答えますか。あまりにも数が多過ぎます。決してあれは健全娯楽ではありません。心に汚点を残すものです。 あくまで投稿者の主観の入った意見ですが、当時のビンゴは「健全娯楽ではない」と感じる人がいる存在だったようです。 パチンコ店は現在も娯楽施設として存在しています。一方、今では見かけることのないビンゴ店はどうなったのでしょう。終戦から20年後の1965(昭和40)年、夕刊1面に連載された「廃虚からの道 広島復興裏面史」に「ビンゴ」に関する記述がありました。「競輪場 建設ためらう市長/復興資金ほしさに決断」(1965年7月31日付)からの抜粋です。 初めて競輪実施の声が出たのは24年である(中略)それから2年後、朝鮮戦争の金ヘンブームで町はわいた。戦後、流行したオハジキを並べてカン詰めの賞品をねらうビンゴゲームが、その座をパチンコにゆずりだしたころである。 朝鮮戦争の勃発は1950年6月25日、休戦は1953(昭和28)年7月27日。この間、国内は特需景気に沸きました。「ビンゴゲームが、その座をパチンコにゆずりだした」とあるので、パチンコに類する位置づけは間違いありません。広島市で競輪実施の声が出た1949(昭和24)年の2年後は1951年。前述のコラムで当時の記者がビンゴを体験した時には既に、下火になりつつあったことになります。 広島以外のビンゴ事情も気になります。ネットであれこれサイトを巡っていると、米国統治下の沖縄のコザ市(現沖縄市)で「法規ソコノケで繁昌/生きているビンゴハウス」という状況を伝える琉球新報の記事を紹介したサイトが見つかりました。沖縄県在住で琉球の文化・風俗などを発信している「ずけらんしん」さんのブログです。 ずけらんしんさんのブログ「ビンゴハウスの謎2(戦後沖縄にあったパチンコ以前のギャンブル)」 紹介されている記事は1956(昭和31)年9月18日付。広島では、ビンゴがパチンコに押されるようになってから5年後です。琉球新報から紙面のコピーを取り寄せました。 「那覇の平和通りにビンゴハウスが軒を連ねたことがある」のは2、3年前のこと。朝から夜遅くまで「Iの○○番、Gの○○番などとガナリ立てるマイクに目を白黒させている姿がよく見られた」そうです。「ビンゴは玉コロガシを駆逐して一躍娯楽の筆頭にのしあがったが、そのビンゴはパチンコに押されて、那覇から何時の間にか姿を消して」しまいました。パチンコが台頭したことで廃れたのは広島と同じです。その時代、「基地の街『コザ』には未だに生きて、大繁昌」していたのです。 記事によると、当時の法規ではカード1枚10円、1回のゲームで販売できるのは30枚の計300円。そのうちの8割、つまり240円を景品で返すことになっていました。 ところが、コザのビンゴハウスでは「法規なんかそっちノケ」で客の要求のまま、1人に15枚でも20枚でも売っていたと記されています。景品の返却は800~1200円。「景品」と言いつつ「現ナマ」が飛び交っていました。「第一ビンゴ、第二ビンゴ、第三ビンゴに当らなければこのカードは宙に舞う」とあるので、先着3人が「現ナマ」を分け合っていたのでしょう。 任侠映画のシーンになりそうなほどの賭博開帳っぷりです。なぜ、摘発されなかったのでしょう。その理由については「警察官もよく出入りしてゲームを楽しんでいるだけに黙認の形」と、記事にさらりと書かれています。時代が違う、統治国が違うという一言では説明できない不思議な空間です。 賭け金と返却金を現代の価値で換算してみます。まずは、沖縄県公文書館が所蔵している1956年の「小売物価統計調査」で、当時のコザ市の物価を確認しました。 ビール1本60円、泡盛1本20円、牛乳1合10円、コーラ1本10円、新聞1カ月75~85円などと記されています。現在の価値なら、ざっと20~30倍でしょうか。「1人がカードを15枚から20枚買い、800~1200円を返却」と仮定して計算すると「3000~6000円を賭け、1万6000~3万6000円の返却金を3人が分け合う」ことになります。これはもう立派な賭博です。いや、法に触れる行為なので、決して「立派」ではありませんが。 現在、国内でギャンブル的なビンゴといえば、2017年に始まった宝くじ「ビンゴ5」があります。縦横3マスずつ、中央を除いた8個のマスに数字が記載され、そろったラインの数で当せん金が決まります。全ラインがそろう1等の確率的な当せん見込み額は約550万円。最高額は3000万円です。 海外に目を向けてみます。 米国で大統領選に合わせて行われる住民投票の行方をまとめた「議員任期や安楽死問う/米もう一つの選択/3日に住民投票」(1992年11月1日付)には、40州以上の争点が出ています。「ギャンブル公認に関する投票を実施するのは12州。ケンタッキー州はビンゴの合法化、ミズーリ州はボートレース、ジョージア州などは宝くじの是非を問う」の記述があります。「ビンゴの合法化」という文字を見ると、普段、自分たちがやっているビンゴゲームが非合法な遊びのようでドキッとします。 「経済自立 遠い道のり/東ティモール独立15年」(2017年5月23日付、セレクト)は、東南アジアの小国、東ティモールの現状を伝える記事です。「若者の半数が失業しているとされ、経済自立への道は遠い」という国情です。記事に併用された写真は「東ティモールの首都ディリで、金を賭けたビンゴゲームに興じる若者たち」でした。世界を見渡せばビンゴは賭け事と深い関係が続いているようです。 ◇ 今回、ビンゴの歴史を調べてみて、自分たちの普段の遊び方と、全く違う側面があったことが分かりました。せっかくなので、広島にあったビンゴゲーム店を体験した人の話を聞けないものかと思いましたが、廃れ始めたのが70年以上前。当時、成人なりたてでも、現在は90歳代の前半。簡単には見つかりませんでした。もし「実はわし、当時はビンゴ王じゃったよ」という情報などがありましたら、お寄せください。
中国新聞社