東東京の横綱に上り詰めた帝京、関東一の軌跡~前田三夫と小倉全由、2人の名将~【東西東京大会50周年物語③】
東東京でも都立勢の躍進が…
翌86年は、波乱の年になった。東東京大会を制したのはノーシードから勝ち上がった正則学園だった。草野球程度の経験しかないという深沢昇部長兼監督が一から作ったチームで、この代では、身長186センチの大型投手である鈴木亮の好投が光り初出場を果たした。甲子園では広島工に1-4で敗れた。この試合では登板していないが、広島工の控え投手に、現ヤクルト監督の高津臣吾がいた。 この年の東東京でもう一つ特筆すべきは、都立足立西が春季都大会の準決勝で帝京を破り決勝に進出、優勝は逃したものの、関東大会に出場したことだ。4番で捕手の大塚を中心として打撃のいいチームだった。夏は準々決勝で関東一に敗れている。 グラウンドが比較的広い西東京には力のある都立勢があったが、東東京には目立ったチームがなかった。足立西は、都立城東、都立雪谷、都立小山台といった、その後の東東京の都立勢躍進の先駆けになった。 87年のセンバツには関東一と帝京が出場し、関東一は平子浩之―三輪隆のバッテリーの活躍もあり、準優勝を果たす。帝京は準々決勝で敗れたものの、現中日監督の立浪和義が主将を務め、春夏制覇を果たすPL学園に2-3と善戦した。夏は帝京が東東京大会を制した。甲子園では2回戦でエースの芝草宇宙がノーヒットノーランを達成した。東京の投手のノーヒットノーランは、57年に早稲田実の王貞治が達成して以来の快挙であった。帝京はこの大会で準決勝に進出。春に続いてPL学園と対戦し、5-12で敗れたものの、全国制覇を狙えるチームになりつつあった。
帝京、悲願の全国制覇を果たす
東東京の話を続けよう。というのも、東東京大会の最初の四半世紀は、帝京が早稲田実、関東一といったライバルチームと切磋琢磨しながら、頂点にたどり着く、というストーリーが結果として成立しているからだ。 88年の東東京大会は決勝戦で修徳との激戦を制した日大一が優勝した。日大一は甲子園では優勝した広島商に敗れている。 平成元年となった89年、センバツに出場した帝京は「東の横綱」として注目されたが、1回戦で報徳学園に敗れた。このチームは近鉄などで活躍する吉岡雄二がエースで4番というチームの柱であった。しかし6月の練習試合で左足をねんざして調整が遅れ、東東京大会は優勝したものの、内容は良くなかった。 それでも、甲子園での最初の試合が大会6日目と遅かったことが幸いした。初戦の米子東戦を被安打5の完封。3-0で勝利したことで勢いに乗った。危なげない内容で一気に勝ち上がり決勝戦に進出した。 決勝戦は仙台育英の大越基との対戦になった。大越の打順は3番。吉岡は4番と、ともに投手が引っ張るチームの対戦は、両エースの息詰まる投手戦で0-0のまま延長戦に突入した。延長10回表帝京は3番・鹿野浩司の2点適時打が決勝点になり、帝京が悲願の全国制覇を果たした。殊勲打の鹿野はセンバツでは主将だった。しかし責任感が強い鹿野はスランプに陥っていた。鹿野の打撃を生かすため主将を1番打者の蒲生弘一に交代していた。前田監督しては賭けであったが、選手がよく応えての初優勝であり、前田監督は歓喜の涙を流した。
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