杉咲花主演、映画『52ヘルツのクジラたち』:いかにして成島出監督がこの時代の傷に向き合ったか
渡邊 玲子
2021年の本屋大賞に輝いた町田そのこの同名ベストセラー小説を、杉咲花を主演に迎えて名匠・成島出が映画化した『52ヘルツのクジラたち』。孤独なクジラの鳴き声は、他の仲間たちには聴こえない周波数で発せられるという逸話に共鳴し、過酷な境遇から解き放たれようともがく主人公たちの声なき声に重ね合わせて描かれた物語だ。精力的に映画を撮り続ける成島出監督に、現代社会が抱える複雑なテーマと正面から向き合う覚悟を聞いた。
『52ヘルツのクジラたち』は、東京を離れ、海を見下ろす高台の一軒家に一人で移り住んできた貴瑚(きこ=杉咲花)が主人公の物語。母親から「ムシ」と呼ばれて虐待され、声が出せなくなった少年と出会い、彼を助けようと奔走するなかで、自身の身に起きたつらい記憶と向き合い、生きることへの希望を見出していく過程が、彼女の回想とともに描かれる。 実は貴瑚自身にも、母親から虐待を受け、義父のヤングケアラーとして人生を搾取されてきた過去があった。そんな彼女の声なきSOSを聴き取り、絶望の淵から救い出してくれた“アンさん”こと安吾(志尊淳)や、高校時代からの親友・美晴(小野花梨)と共に過ごしたかけがえのない日々が、今なお彼女の心には深く胸に刻まれていたのだ。 貴瑚は命の恩人でもあるアンさんに対し恋愛感情を抱いていたが、その想いが叶わないと知り、勤め先の社長の御曹司である新名主税(宮沢氷魚)と結ばれる。だが、思いもよらぬ出来事により、すべては一瞬で変わってしまう──。
映画が呼び寄せた強運
杉咲花は、昨年公開された映画『市子』に続いて、つらい境遇を生き抜く女性を演じている。本作においては、撮影に入る1年以上前の企画段階から、チームの一員として脚本作りに携わり、役が自身の血肉となるまで突き詰めていった。 そこまでていねいに取り組む必要があったのは、この物語を構成している複数の要素が非常にセンシティブなテーマを内包しているからだ。プロデューサーの横山和宏氏(ギャガ)から原作を渡され、映画化の企画を持ちかけられたときのことを、成島監督はこう振り返る。 「小説は面白かったし、本屋大賞を獲るのも分かります。ただ、いざこれを2時間の映画にまとめるとなると無理です、と話したんです。児童虐待やヤングケアラー、トランスジェンダーを取り巻く課題など、さまざまな要素が詰まっていて、1つ1つが軽く扱える題材ではない。小説なら細かい描写で場面ごとの登場人物の心情を補足できますが、映画の場合は“セリフと肉体”だけになるのですごく難しいんです」 しかし横山プロデューサーからは、「この声なき声を、どうにかしてメジャーな作品として世に出したい」、「今だからこそこの作品をやる意味がある」と説得され、その熱意に根負けしたという。 「そこまで言うなら、やれるところまでやってみましょうかと、シナリオ開発を始めました。すると、この映画が持つ運の強さでしょうか、シナハン(シナリオハンティング)で訪れた大分市のフィルムコミッションの方が、あの高台の家に連れて行ってくれたんです。住人の方も親切に招き入れてくださって。お言葉に甘えて縁側に立って海を見渡してみたら、本当にちょうどいい距離感なんですよ」 このロケーションには、運命的とも言える逸話がまだある。 「しかも今から7年前くらいに別府湾に実際にクジラが迷い込んだことがあって。『あそこです!』って、海を指すんです。これはもうやらなきゃダメだ、逃げられないと思いました。皆さんが一生懸命、一丸となってやってくださったので、ゴールまで行けたなって感じです」