“1位確約”も予期せぬ結末「頭になかった」 目前で分かれた運命…翻弄されたドラフト
大学4年の田尾安志氏へ…社会人野球「新日鉄堺」が“監督兼選手”でオファー
1975年のプロ野球ドラフト会議で、同志社大の田尾安志投手兼外野手(現・野球評論家)は中日に外野手として1位指名された。「中日は頭になかったが、どこに指名されてもプロに行くつもりでした」。ドラフト前には、誘ってくれた社会人野球チームにすべて断りを入れていたが、その中には仰天の“条件提示”もあったという。何といきなり「プレーイングマネジャーで来てほしい」と口説かれていたのだ。 【動画】ミニスカ女優が“透け透け衣装”で始球式 スラり伸びる脚「ドラユニ似合う」 大学4年春の関西六大学野球リーグ、3年秋に左肩を痛めた田尾氏はまだピッチングができず、投打二刀流ではなく、打者だけで勝負した。主将も務め、チームを引っ張ったがリーグ戦は2位。それでも6月に米国で開催された日米大学野球選手権大会日本代表に3年連続で選出された。登録は投手ながら、野手でのメンバー入りだった。当時のことで忘れられないのは渡米の日の出来事。巨人監督1年目だった長嶋茂雄氏の自宅を訪ねたという。 「ちょうどアメリカに行く日の昼間。雑誌社のカメラマンに行こうって誘われて(大学日本代表メンバーの)江川(卓投手、当時法大2年)と3人でね。後で思ったんですけど、そのカメラマンは僕が巨人から指名されるかもしれないと考えて、長嶋さんと僕のツーショットの写真を撮っておきたいというのがあったんじゃないですかね」。田尾氏にとって長嶋氏は子どもの頃からの憧れの人。「お宅にお邪魔できるだけでもうれしかったですね」。 スイングも見てもらったそうだ。「地下室があって、そこで素振りをしました。長嶋さんには『フォークボールが苦手そうだな』って言われました。フォークボールが得意ですというバッターはいないよなって思いながら聞いていましたけどね」と田尾氏は笑みを浮かべながら明かしたが、すべてが感激シーンの連続だったのはいうまでもない。大学4年時の日米大学野球といえば、まずこの長嶋邸でのことが思い出されるようだ。 そんな大学4年シーズン、田尾氏は秋のリーグ戦で投手復帰した。最後は主将兼4番兼投手として活躍したが、もはや打者としてプロ注目の選手になっていた。多くの社会人野球チームにも誘われたという。そこであったのが仰天の条件提示。「新日鉄堺、のちに野茂(英雄投手、元近鉄、ドジャースなど)が入ったチームですけど、そこからは1年目からプレーイングマネジャーで、って言われたんです」。