なんでダメだった? 日本代表で輝けなかった名手6人。まるでクラブとは別人だった男たち
チームが違えば求められる役割も変わるもので、クラブチームで圧倒的な存在感を放った選手でも、サッカー日本代表で印象が薄かった選手は多くいる。今回は、所属クラブでヒーローになったものの、代表では同じようなインパクトを残せなかった元日本代表の選手をピックアップして紹介する。
MF:藤田俊哉 生年月日:1971年10月4日 日本代表成績:25試合4得点0アシスト 藤田俊哉は、清水商業高校で全国高校サッカー選手権優勝を経験し、1995年にジュビロ磐田でプロとしてのキャリアをスタートさせた。1年目からレギュラーとしてリーグ戦38試合に出場して7得点を挙げる活躍を見せると、1998シーズンは17得点を記録している。2001年にはJリーグ年間最優秀選手賞を受賞し、日本屈指のMFとして、磐田の黄金期を支える1人だった。 2003年にはオランダのユトレヒトへ期限付き移籍を経験した藤田は、オランダでも一定の活躍をしたが、クラブの財政的な事情もあって完全移籍にはなっていない。その後日本復帰となり、磐田のほかに名古屋グランバスやロアッソ熊本などでコンスタントに活躍した。 しかし、日本代表では存在感があまりなかったと言えるだろう。1995年の加茂周体制でデビューしたが、その後のフィリップ・トルシエ、ジーコのもとでもレギュラー確保には至らず。各クラブの中心選手が集まる日本代表で、藤田が中心のチームができあがることはなかった。日本代表で25試合に出場したが、1998年のFIFAワールドカップのメンバー入りも逃している。
MF:本山雅志 生年月日:1979年6月20日 日本代表成績:28試合0得点5アシスト 本山雅志は、東福岡高校時代から注目されていた選手で、3年生のときにはインターハイ、全日本ユース選手権、高校サッカー選手権大会の3冠を達成した。特に、中田浩二を擁した帝京高校との選手権決勝はいまでも語り継がれている伝説のゲームだ。 多くのクラブが関心を示す中で1998年に鹿島アントラーズでプロキャリアを始めた本山は、1年目にほとんど出番がなかったものの、次第に存在感を強め、3年目の2000シーズンはリーグ戦で6得点を記録し、2002シーズンからは鹿島の背番号10を付けることに。キレのあるドリブルを武器に、日本を代表する選手の1人として輝きを放った。 しかし、日本代表ではほとんどインパクトを残せなかったと言える。2000年にA代表デビューを果たした本山だが、2002年の日韓ワールドカップではメンバーに入れず。その後ジーコ体制となって迎えた2004年のAFCアジアカップでは主に途中出場で起用されたもののアピールはできず、代表定着には至らなかった。そして、2006年のドイツワールドカップでもメンバー入りを逃している。 結局、本山は代表戦28試合に出場して、得点なしに終わった。