47年前の「能登半島」の再生回数が倍に… 石川さゆりが“胸中複雑な再ヒット”と“伝えたい想い”を語る
2024年の夏、石川さゆりが1977年に歌った「能登半島」が再び注目されている。音楽ストリーミングサービスのSpotifyでは、再生回数が1年前より約2.4倍に増加。前年のNHK紅白歌合戦で披露された「津軽海峡・冬景色」が約1.7倍、前々年に披露された「天城越え」が1.5倍であることを考えると、顕著な伸びといえる。また、通信カラオケJOYSOUNDでの2024年上半期の歌唱回数でも、「能登半島」は前年同期比1.6倍で、こちらも「津軽海峡・冬景色」の1.1倍、「天城越え」の1.0倍より明らかに伸びている(表参照)。 【能登半島地震】「あの倒れ方はやはりおかしい」 “五島屋ビル”は現在も撤去されていない
石川さゆりと聞けば、07年以降の紅白で1年おきに歌われる「津軽海峡・冬景色」と「天城越え」の2曲をイメージする人も多いかもしれない。しかし、「能登半島」は1977年の発表当時オリコン最高7位で週間TOP20に約4ヶ月チャートイン、累計売り上げは42万枚以上と、れっきとしたヒット曲なのだ。ちなみに、紅白では2003年に1度だけ歌唱されている。 そんな「能登半島」が今ヒットしている背景には、元日に起きた能登半島地震の影響があることは間違いがない。石川にしてみれば胸中複雑な再注目と思われるが、本人はどう感じているのだろうか。
「自分に何ができるのだろう」
そもそも「能登半島」は、 “単なるヒット曲ではない”と石川は語る。 「これまで『津軽海峡・冬景色』(青森)、『暖流』(高知)、『火の国へ』(熊本)、『天城越え』(静岡)と、歌を歌いご縁が生まれ、その地を訪れる機会も多いです。『能登半島』(石川)もそうした曲のひとつで、19歳の時に阿久悠先生の作詞、三木たかし先生の作曲で歌い、それ以来、輪島塗の職人さんや、民宿の方など、地元の方たちと出会っては、長いおつきあいをしてきました」 地元とそんなかかわりをしてきた石川だからこそ、当然ながら、震災はけっして“他人事”などではなかった。 「元日、あんな大変なことが起こるなんて、本当に驚きました。知り合いの方々に電話をしても、次の日もその次の日も繋がらなくて、連絡がつくまでに1週間ほどかかり、とても心配しました。現地の様子はニュースでしか知ることができず、どのくらいの被害になっているのだろうと想像するばかり。昨年末のクリスマスのディナーショーでも能登へお邪魔したばかりでしたので尚更にショックでした」 震災直後から、日々のコンサートでも「能登半島」を歌唱し、会場には義援金箱を設置、その後、春には現地に足を運ぶなどの活動をしてきた。 「私の歌を聴いてくださった方たちが、そういう大変な震災にみまわれ、とにかく大上段に構えるのではなく、自分に何ができるのだろう、実際はどういう状況なのだろうと案じるばかりでした。そして、コンサート会場で義援金箱を設置して、ファンの皆さんにご協力いただいていました。 やっと、桜の花が咲く頃、まず皆さんに会いに行こうと、能登町に伺い、現地でいろんなお話を聞き、“また必ず歌を届けに来ますから、元気でいてくださいね”と約束をして帰って来ました。その時、“能登の皆さんが一緒に歌える歌はなんですか”とお聞きしたら、“石川さゆりの“能登半島”だよとおっしゃって下さって、自分は皆さんにこうやって歌を愛してもらったからこそ、今日があるのだと実感しました。そして、皆さんと心を繋いで、元気になっていただけたらと思い、ちゃんと歌を届けに行こうと心に決めました」