作家・樋口毅宏が語る、アカデミー賞ノミネート『落下の解剖学』の魅力「強すぎる妻と絶対勝てない夫の現実に泣きました…」
「最高でした。金を稼ぎ、弁が立ち、強すぎる妻。既視感ありまくり。これはウチがモデルですか?僕は100万回泣きました」 【写真を見る】『落下の解剖学』について「これはウチがモデルですか?僕は100万回泣きました」とコメントしている作家の樋口毅宏 第76回カンヌ国際映画祭で最高賞パルムドールを受賞し、現地時間3月10日に授章式が迫ったアカデミー賞では作品賞など5部門にノミネートされている『落下の解剖学』が、2月23日(金・祝)より日本公開される。雪の山荘で転落死した小説家志望の夫サミュエル。その死体の第一発見者となった、目の不自由な11歳の息子。そして夫の殺人容疑を向けられるのは人気作家である妻サンドラ。事件の真相を追っていくなかで、この一家の嘘や秘密が赤裸々に明かされていき、登場人物の数だけ真実が現れる。その緊張感には並々ならぬものがあり、圧倒される観客も多いのではないだろうか。 最新刊「無法の世界 Dear Mom, Fuck You」も好評の作家、樋口毅宏も、本作に圧倒された観客の一人。法廷で夫婦の口論の音声が流されるシーンは、映画のなかでももっとも迫真に迫り圧倒される場面だが、そこがやはり鋭く刺さったという。ご存知の方も多いと思うが樋口の妻、三輪記子はTVのコメンテーターとしても知られる弁護士。「うちらをモデルにしたのか」と思うほど、弁が立つ妻を持つサミュエルに共感したという樋口が語る、『落下の解剖学』の魅力とはなにか? ■キャラクター設定、脚本、音楽、演出…「すべてが上手くできている」 大の映画好きである樋口によると、まず女性作家が主人公であるという点が、本作のおもしろさやリアルさが増す設定の一つだ。「ここ数年、作家の女性を主人公に据えた作品が多くなったと思います。『天才作家の妻 -40年目の真実-』は、表向きヒロインは作家ではないですが、とても良い映画でした。他にも『ある女流作家の罪と罰』、ちょっと前ですが『主人公は僕だった』、『めぐりあう時間たち』などがあります。どれも女性作家をセンシティブな存在として描いていますが、これは『落下の解剖学』にも通じます。直木賞や芥川賞を振り返っても、近年は女性作家の受賞が多くなりました。一読者として小説を読んでいても、女性作家の作品の方が発見があるなあと思います。逆に、男の作家の本は『また同じこと書いてるのか…』と思ってしまうことが多いかもしれません」 夫殺しの容疑者となった主人公サンドラは法廷に立ち、容赦ない審問を受けるが、映画を観る観客は、その過程で夫婦のいさかいの生々しい現実を知ることになる。亡くなった夫サミュエルに対して、樋口は「これは俺か!?」と思ったと笑って語る。 「夫婦喧嘩の映画といえば『ローズ家の戦争』や『Mr.&Mrs.スミス』のような映画を思い浮かべる方もいると思いますが、現実はあんなドンパチではなく、『落下の解剖学』に近いですよね。いたたまれないし、身につまされる。そもそも現実の夫婦喧嘩は夫の0勝100敗じゃないですか(苦笑)もう、こっちが謝るしかないんですけど、そういう自分の身と重ねてしまいますよね。もしも妻に『どっちが大黒柱だと思ってるの?』と言われたら『申し訳ございません!』と言うしかないですから(笑)」 『落下の解剖学』の夫サミュエルは作家として作品のアイデアを練っていたが挫折。妻サンドラがそのアイデアをもらい、小説にしたらそれが当たった…という背景が、この映画にはある。「この設定でツラいと思ったのは、夫婦がどちらも作家で、いわば同業者であること。しかも妻のほうが成功している。『イカとクジラ』でも、夫より妻が成功した作家夫婦の関係の破綻が描かれていましたが、それと似た設定ですね。そうなると結局、夫の虚勢が目立ってしまう」 幸いにも樋口家は、その心配はないとのこと。「僕自身は専業主夫のようなものですが、稼ぎが妻よりも少ないことを引け目に感じたことはありません。育児は僕がやっていますし、妻が稼がないことには家が回りませんから、ちっぽけなプライドを持っていてもしょうがない。でも、プライドの高い方はツラいだろうなあと思います」 サミュエルの落下事件が起こる当日の様子を描く前半から、後半はサンドラに嫌疑がかけられた夫殺しの真相を追う心理ミステリーへと発展する。サンドラは「実体験とフィクションを織り交ぜて書く物語」で人気のベストセラー作家。彼女が口にする証言は果たして真実なのか。緊張感が途切れることなく進行していく物語について、「上手くできているなあと思いますね」と樋口は語る。 「落下事故が起こったときに残っていた状況証拠が後々になって効いてくる。旦那さんが爆音で流していた50セントの『ピンプ』という曲もそうだし、インタビューのために来ていた女子大生の取材の録音音声が残っていることも活きる。サンドラに同性愛経験があり、しかもインタビュアーが美人の女子大生であるという点もそうですね。こういう要素は設定に無理がないので、物語を作る人間としては本当に上手いなあと思います。法廷シーンにしてもドキュメンタリーのように撮っていて、カメラワークも巧みですし、いちいち上手いなあと思いながら観ました」 ■「『落下の解剖学』は、現代を映し出す鏡のような作品」 映画の後半では、最初に述べたとおり、夫が録音していた夫婦喧嘩の音声が証拠として法廷で流されるが、これがかなり強烈である。音声中、育児担当のサミュエルは妻に「俺にも時間をくれ!」と訴える。「ああいう気持ちは昔の僕にもありました。上の子が小さい頃は手がかかりましたから、エッセイを1本書く時間も取れず、妻と口論したこともありますが、それはもう話し合って解決していくしかないですよね。なにも話さず、『なんでわかってくれないの?』ではうまくいかない。夫婦はいいときも悪いときもあり、こじれる時はどこまでも行ってしまいますから、『わかってるでしょ?』では続かない。言うべきことを心に留めずに話すことも、気遣いの言葉をかけることも、本当に大事だと思います」 ちなみに、本作の監督ジュスティーヌ・トリエの私生活のパートナーは、こちらも同業者であるフィルムーメーカー、アルチュール・アラリ。樋口はそこにも注目する。「監督のご主人は『ONODA 一万夜を越えて』を撮った人なんですよね。今回の映画では共同で脚本も書いています。こんな映画だから、彼らおふたりの関係も気になりましたが、アカデミー賞のノミネート発表の時、旦那さんも立ち会って自分のこと以上に喜んでいる姿をSNSで観て、よくできたご夫婦だなあと思いました。信頼し合える関係でなければ、『落下の解剖学』のような映画は作れなかったかもしれませんね」 もちろん、樋口が自身の家庭と重ねて本作を語られるのも、家族への信頼があってこそ。「これだけ妻が強いと、いくら謝っても許してもらえなさそうじゃないですか。自己防衛も自己弁護も全部強い。自分の妻と重ねて観ちゃいますよ」と本作のサンドラについて笑って語る一方で、本作で浮き彫りになる事実にも言及。「セックスの経験が多かったり、浮気していたりという理由だけで、女性が悪いと断罪され、裁判の場でも黒に傾くということはおかしい。男の場合は、そういうことが勲章みたいになったりするけれど、これは不公平。世間ではいまだに、『女は怖いよ』みたいな物言いをされることもありますが、どうかなあとも思います。そもそも殺人犯の9割は男性ですから」 サミュエルの“落下”は、妻の願望を象徴していると、樋口は分析する。「“落下”を象徴的に撮った映画は多いですよね。近年は『別れる決心』もそうでした。あれも夫が落下死して、妻が疑われるという内容で、すごくおもしろい映画でしたが、元をたどれば増村保造監督の『妻は告白する』に行き着くんですよ。夫が転落死して命を落して法廷ミステリーに展開する点では『落下の解剖学』の親とも言える作品なんじゃないでしょうか。いままで虐げられてきた女性の復讐。我々、男はこれを重く受け止めなければいけないと思います」 政治家の失言や芸能人のスキャンダルが報じられるたびに、現実の日本社会では女性を蔑んできたことに対する反発の気運が高まっている。『落下の解剖学』は、そんな現代社会の反映と見ることもできる。樋口は映画に加え、プロレスやポップミュージックの大ファンであることは有名だが、いずれのジャンルにしても昔のそれらよりも今のものがおもしろいと感じているという。 「昔の作品にはもちろん価値やおもしろさがありますが、それを有難がるよりも、いまのもののおもしろさを発見したい」と彼は言う。映画はしばし現代を映し出す鏡と言われるが、『落下の解剖学』はそれを象徴する作品と言えるかもしれない。「とりわけ映画は現代の価値観を提示しているという点で、とでも大きいジャンルだと思います。そういう要素をエンタテインメントの中に落とし込み、説教臭くなく提示して、観客はリテラシーを持ってそれを受け取るというのが、醍醐味ですね。そういう意味では映画は近年ますます好きになりましたし、『落下の解剖学』も自分の気づきに大きな影響をあたえてくれた作品です」 深みのある作品ではあるものの、決して難しい映画ではない。「若い方はフランス映画というだけで高尚に思われるかもしれませんが、けっこう下世話だぞ、これは」と樋口はストレートに語る。実際、内容はスキャンダラスだし、エンタテインメントとして見てもサスペンスフルだ。その先を読み取ることは、彼の言葉どおり、それぞれのリテラシーに関わっているのかもしれない。ちなみに樋口は「『バービー』も妻と一緒に観に行きましたが、『落下の解剖学』も一緒に観に行こうと話しています。ご夫婦で、ぜひ観に行って欲しい」と語った。この強烈な注目作に、あなたはなにを見るだろう? 取材・文/相馬 学