水沢アキ「ハワイの現地で“脱いで”と言われ、翌朝一人で日本へ帰ってきちゃった」篠山紀信さんとの撮影秘話を語る
今回登場してもらったのは12月に70歳を迎えたばかりの女優・水沢アキさん。華麗なる恋愛歴から終活の話、果ては今年1月に亡くなった篠山紀信さんとの撮影秘話まで、とことん語り尽くしていただきました。【第1回/全2回】 【画像】篠山紀信、水沢アキの45年の奇跡をまとめた写真集「A KI MIZUSAWA 1975-2020」 ーー水沢さんといえば忘れられないのが、白いTシャツから素肌が透けた、篠山紀信さん撮影のグラビアです。『GORO』(小学館)に掲載されました。 「先生とは芸能界で私が一番長いお付き合いじゃないかと思っていて。あれはアイドル歌手をしていた19歳のとき、グアムでの撮影のことでした。 先生から“海水でファンデーションを取って、素顔に近い状態にして”と言われて化粧を落とすと、今度は“海の中に入ってビキニの上だけ脱いで”とお願いされたので“上だけならいいか”と思い、何枚か撮ったのが、あの写真です。ふだん、私は口紅も付けなかったの。清純派のイメージとはまったく違う、そんな姿を先生は出してくれたんです」 ーー当時はヌードの撮影はしていないんですね。 「1枚もないです。そのあと事務所を移り、23歳のときに“思い出に”ということでプライベートとして数枚ヌードを撮りました。 先生には心を許していたので、恥ずかしさも抵抗感もなく笑顔で撮影に挑めましたね。ただ、写真を見せてくれないから実際に撮った写真が、どんなだったかは知らなかったんです」 ーーあくまでプライベートで撮影したんですね。 「はい。逆に、“さあ、裸で”という撮影はイヤだったんです。25歳のとき、“先生の水着グラビアの撮影”と、マネージャーに告げられてハワイへ行きました。到着したら“脱いで”と言われ、私は“話が違うじゃない!”と泣いて怒りました。プロとして撮影はしましたが、私はマネージャーに騙されたことに傷ついて許せなくて、翌朝、もらっていたオープンチケットで一人、日本へ帰ってきちゃったんです」
篠山紀信に「名誉挽回させてください」
ーー驚きですね! 篠山さんの反応はどうでしたか? 「撮影はあと2日あったし、激怒ですよ。そのときの写真は、他人に見せたくないからカメラに背を向けていたり泣いていたりと、ひどい有様。先生も私がいないからハワイの海辺を撮影して帰ってきたそうです」 ーー撮影現場で騙されたことが許せなかったんですね。 「それに、当時出演していた11本のCMは契約上の理由でヌード厳禁。失うものも多いですしね。これを機に事務所は辞めました。 先生には“ヌードと言われず撮影に行ったし、一人の女性として撮りたくない時期だった。仕事だと割り切れないので、もう少し話し合ってほしかった”と、正直に伝えました」 ーーその後、30歳のときに篠山さんの撮影でヌードを解禁していますよね。 「はい。仕事が忙しくて、結婚も出産も経験できないかもしれない、“それなら”と、私から先生に“名誉挽回させてください”とお願いして、堂々とカメラの前に立ったんです。女優としての覚悟も決まっていたので、明るい表情で写真を撮りました」 ーー繊細な撮影ですし、ご自身の気持ちを尊重すべきですよね。40歳のときにはヘアヌードも解禁しました。 「これは私からの提案だったんです。10年ぶりに、先生と偶然お会いして、“アイディアがあるんです! 19歳から今の40歳までの写真を1冊にして、ヘアヌードを交えた写真集を作りませんか?”と伝えました。翌日には小学館の方から連絡があり、すぐに決まりました。そのとき初めて、23歳のときに撮っていたヌードを見たんですよ。こんな写真があったのかと驚きつつ、“かわいい!”とも思いましたね」 ーー水沢さんのアイディアだったんですね! 「65歳で出した2冊目のヘアヌード入りの写真集も、打ち合わせのときに私が“自宅のリビングから見える桜がキレイなんです”と話したら、“じゃあ、水沢さんの家で撮りましょう”となりました」 ーー最後の撮影の際は、どんなお話をしたんですか。 「“体が崩れてないな”と言われ、“男性と付き合ってないですからね”と返したことを覚えています」 水沢アキ(みずさわ・あき) 1954年12月5日、東京都生まれ。17歳でドラマ『夏に来た娘』(TBS系)で主役デビュー。『連想ゲーム』(NHK)ではキャプテンを務め、女優としてだけでなく、司会、コメンテーター、リポーターなど、幅広い分野で活躍。 THE CHANGE編集部
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