ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版 (41) 外山脩
ともかく平野はマラリア用の薬を必死になって手に入れ飲ませ続けた。 が、効き目はなく、しかも、その薬代が大きなものになった。 彼は、この植民地づくりのため、ある程度の資金を用意していた。 しかし、それは尽きた。 入植者たちは元々、資金といえるほどのモノは用意していなかった。 五月の乾燥期に入ると、病魔も漸く下火になった。といっても消えたわけではなかった。例えば平野も、その病魔に取りつかれたままであった。入植者の多くが、そうであった。 働き手を失った家族は去って行った。 残った家族は皆、罹病していた。が、それでも働かなければならなった。 六月から本格的な開拓が始まった。樹林を倒し整地し作物を育てた。 翌一九一七年。営農はなんとか進んだ。 十一月。米も気持ちよく育ち、その他の穀類も、茂りに茂って豊作確実となっていた。死地からやっと抜け出せると、皆、生色を取り戻していた。 ところが、十三日。 空を見上げると異様な雲が近づいてくる。が、どうも雲とは違う。不気味な感じだった。その内、頭上に来たそれが、ポタリポタリと地上に落ち始めた。見ると蝗だった。大蝗軍の襲来だった! 作物は一物も残さず食い荒らされた。 この時の蝗害は物凄かった。ノロエステ線の汽車が走れなくなったという。線路が蝗の油で滑り、車輪が空回りするばかりだったのだ。 翌一九一八年も大旱魃、大霜害と災厄が続いた。主作物として植え付けたカフェーの幼木は全滅した。 植民地の土地代の何回目かの支払いが迫っていた。平野は、百方手を尽くして金策したが、どうしても不足した。 窮してサンパウロに松村貞雄総領事を訪ねた。松村は平野のやつれ様に驚き、個人的にその不足分を用立てた。夫人の預金まで出させたという。 松村は一九一五年、総領事館の正式開館の折、着任した初代総領事である。後述するが平野に植民地建設を勧めた人物であった。 一九一九年、平野運平は遂に斃れた。 衰弱し切っていたところへ、新たにブラジルに侵入してきたスペイン風邪にトドメを刺されたのだ。 入植から四年目のことで、三十四歳という若さだった。その最期は「死んだ入植者の後を追って」と、ドラマチックに語り継がれた。 かくして平野はブラジル日本移民史上の悲劇の主人公となった──。 しかし、これはおかしい。犠牲者の多さからすれば、笠戸丸以上の失敗、水野龍以上の大罪といえる。 前出の青柳郁太郎は、ブラジル経験は僅かであったが、イグアッペで植民地造りを始める時、まず医師を日本から呼び寄せて常駐させた。その医師は、最初に奥地を回って、風土病の調査をしている。 北島研三といった。日清、日露の両戦役に軍医として従軍した後、イグアッペに招かれた。十年、献身的に尽くした後、任地からほど遠からぬジュキアで、風土病が流行した時、応援に駆けつけ、自身感染、落命している。北島の献身の対象は、非日系人にも広く及び「神」とまで慕う患者もいた。 平野植民地は、そういう良医どころか医師そのものを確保せず、入植を始めた。しかし平野は、この国に来て七年になる。風土病の危険は耳にしていた筈である。しかるに前記の如くであった。 責任を負うべきは平野ということになる。土台、不注意から大量の人間を死なしておいて、悲劇の主人公では、話に無理があり過ぎる。平野自身も、あの世で、そういう扱いを知ったら、懸命に否定したであろう。 何故、悲劇の主人公といった類の間違った呼称が生まれてしまったのか。 ここで思いつくのは、彼が当時すでにヒーローであったことである。