【最強世代までの軌跡・前編】日本サッカー黎明期 小野伸二の海外強豪クラブ移籍を阻んだ「時代の壁」
大迫勇也(33)、山口蛍(33)、酒井高徳(32)ら、元日本代表クラスをズラリと揃えるヴィッセル神戸が悲願のJ1初制覇を達成し、’23年のJリーグが幕を閉じた。 【写真多数】すごすぎる…! アントニオ猪木 死の1ヵ月前「衝撃の闘病」内部写真 毎年のことだが、年の瀬が近づけば、その年限りでユニフォームを脱ぐ選手が出てくる。今年最大級のニュースとなったのは、’98年フランス・’02年日韓・’06年ドイツのワールドカップ(W杯)3大会に出場した元日本代表・小野伸二(44・札幌)の引退だろう。 9月27日の引退発表の際、彼はこんなコメントを残している。 「39年間もの間、僕の相棒として戦ってくれた“足”がそろそろ休ませてくれと言うので、今シーズンを最後にプロサッカー選手としての歩みを止めることを決めました」 偉大なファンタジスタを筆頭に、今年に入ってから本山雅志(44・鹿島アカデミースカウト)、高原直泰(44・沖縄SV代表・監督・選手)、南雄太(44・大宮)ら’79年生まれの「黄金世代」の面々が続々と引退を決断している。’90年代から’00年代にかけて異彩を放ったスターたちがピッチを去っていくのは、本当に寂しい限りだ。 ’99年のワールドユース(ナイジェリア)準優勝が象徴的だが、この世代が日本サッカーを大きく飛躍させる原動力になったのは紛れもない事実だ。今では当たり前になった海外移籍という部分でも、彼らは突破口を開く存在となった。 小野伸二がオランダの名門・フェイエノールト、稲本潤一(44・南葛SC)がイングランドのトップクラブ・アーセナル、高原がアルゼンチンの強豪・ボカ・ジュニアーズにそれぞれ赴いたのは’01年。 それ以前の主要日本人選手の海外移籍といえば、’94年にイタリア・セリエAのジェノアに移籍した三浦知良(56・UDオリヴェイレンセ)、’98年に同・ペルージャ入りした中田英寿(46)、’99年に同・ヴェネツィア入りした名波浩(51・日本代表コーチ)の3人が代表的な存在だ。このうち中田がペルージャ、ローマで示したインパクトは絶大だったが、まだ日本が「サッカー発展途上国」という位置づけだった時代に、同い年の3人が揃って海外の扉を叩いたのは画期的な出来事だったと言える。 とりわけ、小野の活躍は目覚ましいものがあった。’01年夏にオランダに渡ると、ベルト・ファン・マルバイク監督(71・元オランダ代表監督)に高く評価され、瞬く間にボランチのポジションを獲得。01-02シーズンUEFAカップ(現UEFAヨーロッパリーグ)制覇を達成している。 ’02年5月にファイナルが行われたのは、フェイエノールトの本拠地・ロッテルダムのデ・カウプ・スタディオン。対戦相手がドイツの名門、ボルシア・ドルトムントだったこともあり、ライバル心はヒートアップ。町中が凄まじい熱気に包まれる中の激闘となった。その大一番で小野は当時デンマーク代表のエースFWヨン・ダール・トマソン(47)の決勝点につながる華麗なループパスを供給し、勝利をお膳立て。一気にスターダムへのし上がったのである。 直後に’02年日韓W杯があり、そこで活躍したトマソンは当時欧州最高峰クラブだったACミランへ移籍。小野とボランチコンビを組んだポール・ボスフェルト(53)が’03年にマンチェスター・シティへ。若き成長株だったロビン・ファン・ペルシ―(40)が’04年にアーセナルに引き抜かれるなど、多くの主力がステップアップを果たした。 しかしながら、ビッグクラブから最も関心を寄せられた日本人MFの、格上リーグへの移籍は叶わなかった。最大の要因はケガだ。小野は’99年7月のシドニー五輪アジア1次予選・フィリピン戦で左ひざ内側側副じん帯断裂の重傷を負ってからケガに泣かされ続け、ジーコジャパン時代は日本代表でも主力の座を逃す形になったのである。 「オランダ移籍1年目から一緒だった選手が3年目までにゴッソリいなくなってしまい、監督も変わってチームのクオリティが下がり、気が抜けた部分があったのは僕の中で大きかった。高いモチベーションの時に移籍できていたらステップアップは可能だったのかな。それができなかったのは個人の力のなさなのかな」 かつて小野はこう苦笑したことがあったが、「あの小野でさえもイングランドやスペインに行けないのか」という驚きは当時の関係者の間にあったのではないか。 ’02年日韓W杯の後、中村俊輔(45・横浜FCコーチ)がイタリアのレッジーナ、鈴木隆行(47・解説者)がベルギーのゲンク、柳沢敦(46・鹿島ユース監督)がイタリアのサンプドリア、中田浩二(44)がフランスの名門・マルセイユ、松井大輔(42・Y.S.C.C.横浜)が同・ルマンへ赴くなど、欧州でプレーする日本人選手の数は少しずつ増えていったが、まだまだ評価自体が低く、興味関心を抱いてくれるクラブも少なかった。日本人代理人の数も数えるほどで、日本人選手を移籍させるルートも乏しかったため、好条件の移籍を勝ち取れる環境も整っていなかった。そういったマイナス面も小野のステップアップが実現しなかった要因かもしれない。 ’00年代前半から日本人選手の欧州移籍に携わっている、ある代理人が話していたが、可能性のありそうなクラブを探し、強化担当者にコンタクトし、意思疎通を図るのは当たり前。何十ものクラブにアタックし続けた例もあったという。 「年俸の高い、いいクラブを探す秘訣はマメなコンタクトと、いかにインパクトのある(資料)映像を作るか。専門の映像制作会社に協力してもらい、いいプレーをピックアップして組み込んでもらって、最大限、イメージを高める努力をすることがすごく重要」 と、その代理人は話した。 アナログ時代の20年前とは違い、現在はIT技術が進んでいるため、クラブ関係者は世界中のプレー映像を瞬時にチェックできるし、選手のデータや年俸などもデータシステムで確認すればいい。 今夏、ドイツ・ブンデスリーガ2部のキールへ赴いた’22年カタールW杯日本代表FW町野修斗(24)の例だと、キール側がマッチングシステムを活用し、必要なFWの条件を入力したところ、浮上したのが町野だったという。クラブ側から「今の自分のプレーをしてくれればいい」と直々にオンライン会議システムを通してオファーを受けた町野は、相手側の熱意を感じ、迷わず移籍を決めたというのだ。 ご存じの通り、小野がフェイエノールトにいた頃、そうしたツールは一切なかった。もしテクノロジーが進んでいたら、彼を筆頭に高原、中村俊輔らももっといいクラブに行けた可能性があるかもしれない。 ただ、そういう時代の面々が欧州でキャリアを築き、「日本人選手は十分に通用する」と実証したことで、少しずつ道が開けていったのは間違いない。そういう意味で、イタリアでスクデットを獲得した先駆者の中田、欧州カップ戦で優勝した小野、UEFAチャンピオンズリーグ(欧州CL)でインパクトを残した中村俊輔の価値は高い。’00年代までの模索期間があったからこそ、香川真司(34・C大阪)や内田篤人(35・JFAロールモデルコーチ)、長友佑都(37・FC東京)らが成功した2010年代の日本人大量移籍時代へとつながっていったのである。 続編記事『【日本人選手の価値を高めた】長谷部誠と本田圭佑が切り開いた「代表主力以外でも海外移籍」の道』へと続く。 取材・文:元川悦子
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