「日本一のモテ男」吉行淳之介は理解っていた、超シンプル「モテるために必要なこと」
近づきすぎず、引きすぎず
たまたま芥川賞を受けたので、文筆で生計を立てることに決心した――。作家・吉行淳之介の自筆年譜にはこう記されている。軽やかな台詞ながら、静かな喜びが感じられる。 【写真】「本当にモテる男」にカネも容姿もいらない、本当に必要なモノは 昭和29(1954)年、当時30歳の吉行は『驟雨』で芥川賞を受賞。以後、遠藤周作や安岡章太郎らと共に「第三の新人」と呼ばれ、文壇での地位を確立する。 一貫して男と女をテーマに人間の精神を追い続けた、というのが世間的な吉行の評価だ。だが、かつて編集者として吉行を担当していた、作家の村松友視氏の考えは少し違っていた。 「『距離感』を描く作家、と言ったほうが正確ではないでしょうか。男女の性の描写にしても、高揚感や生臭さではなく、宿縁感や諦念をはらむ、相手との間に冷たい独特の距離がある。文学の王道を行くのとは別物の、他の人には真似できない狭い領域を削り彫っていくような人だったと思います」 近づきすぎず、かといって引きすぎず。吉行は人や物事との距離感の捉え方が実に巧みだった。「座談の名手」と呼ばれた所以もそこにあると、村松氏は話す。 「座談中、店の人に気を遣い、出てくる料理を精力的に食しつつ、ゲストの緊張をほぐす。そして繊細な感性や人生体験に裏打ちされた軽妙洒脱な話芸で、ゲストの本音を誘い出す。間の取り方が絶妙でしたね」
ギャップに人は惹かれるもの
文壇の中でこそ華やかな存在だった吉行だが、その文章の節々には、どこか孤独が漂う。その源流には何があるのか。 大正13(1924)年、吉行は新興芸術派の作家・エイスケと、女性美容家・あぐりの間に生まれる。裕福な家庭だったが、放蕩暮らしの父、多忙を極める母は共に家に帰ってこない。 さらに病気が吉行の孤独を一層募らせた。妹で女優の吉行和子氏はこう話す。 「兄はアレルギー性の気管支喘息や腸チフスなど『病気のデパート』と言われるくらい次々に大病を患いました。私も病弱でしたが、『キミは必ず治るからいいね』と、本当に羨ましそうに話していました」 世間の日常に距離を置く。吉行の醒めた姿勢は、家庭環境や病気体験から生まれたのかもしれない。ただ、家族だけに見せる一面は違った。 「父が34歳で急逝した後、兄が『父親の代わりをしなくてはね』と言ってくれたのを覚えています。私が番組に出演した時は必ず電話をくれて、『あそこの間は良かった』と褒めてもくれた。けっしてベタベタした交流ではなかったですけれど、兄なりのやさしさに触れた思い出です」(和子氏)