コラム:亜州・中国(22)伊東正義・元外相の持論「外交の基軸は日米・日中」と政治家人生
泉 宣道
伊東正義元外相は「総理のイスを蹴った男」として知られる。外交は「日米同盟と日中関係が基軸」が持論だった。とりわけ中国とは厚い信頼関係を築いた。今年は没後30年。その人物像を回顧し、政治家とはどうあるべきか考えたい。
「総理のイスを蹴った男」は会津っぽ
自民党派閥の裏金疑惑など「政治とカネ」が今、大きな国内問題になっている。こうした中、30年前に鬼籍に入った伊東正義氏の名前が政治改革の象徴として改めてクローズアップされている。 伊東氏が「総理のイスを蹴った男」と呼ばれたのは35年前。1989 (平成元)年、リクルート事件で竹下登首相が退陣を表明、その後継候補として高潔で金権政治とは無縁の伊東氏に白羽の矢が立った。 都内の自宅はさびだらけのトタン屋根で、質素な暮らしをしていることが報道されたこともあって、全国から“伊東コール”が巻き起こった。しかし、本人は「本の表紙だけ変えても中身が変わらなければダメだ」との名言を吐いて最後まで拒んだ。 宮沢喜一元首相は『伊東正義先生を偲ぶ』(伊東正義先生回想録刊行会編集、95年7月10日発行)で、首相の座を固辞したことについて「伊東正義という政治家の真骨頂」であり、「歴史に残る出来事」と評し、次のように記した。 「その後、何年かたって、総理大臣が何度も変わる世の中になって、総理大臣の名前を忘れてしまったなんていう笑い話がある中で、総理大臣にならなかった人、総理大臣を断った人の名前だけは、おそらく長いこと世間は忘れないだろうと思います」 伊東氏は会津若松の出身。伊東家の先祖は会津藩の御典医と伝えられる。祖父は会津藩士で戊辰戦争に参加、父は教育者だった。本人は幼いころから会津藩の家訓「ならぬことは、ならぬものです」を心に刻んだ。 「会津っぽ」を誇りにしていた。やってはいけないことは絶対にやらない。自分が正しいと信じたことには、不退転の決意で臨む。そんな会津人らしい一徹さ、頑固さを生涯貫いた。神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園にある墓石に刻まれた戒名は「閒雲院正義一徹居士」である。