中国に愛された坂本龍一の「ラストエンペラー」は中国音楽か日本音楽か
<中国外交部のスポークスマンが哀悼の意を表したほど中国でも愛された坂本龍一。あの時代とこの場所に生きる日本人だからこそ、作ることが可能だった『ラストエンペラー』の音楽について。WEBアステイオンより>【榎本泰子(中央大学文学部教授)】
2023年3月に坂本龍一が亡くなった時、中国外交部のスポークスマンが定例会見で哀悼の意を表明した。そのニュースを見て、坂本が中国で愛されていることを初めて知った日本人が多かっただろう。 【動画】中国に愛された坂本龍一の「ラストエンペラーのテーマ」 私もその一人だった。気になって調べてみると、坂本と中国には、1960年代の毛沢東主義への関心から始まる長い縁があるとわかった。日中の文化交流史としておもしろいテーマだと思い、「坂本龍一と中国」という論文を書いて大学の紀要に投稿した。 『アステイオン』99号の特集「境界を往還する芸術家たち」は、日本を「視座の中心」におき、日本人や日系人の芸術家に焦点を当てている。 長木誠司氏の「ヨーロッパで活動する日本人音楽家」の冒頭で、坂本龍一がニューヨークを拠点に活動していたことが言及されているように、日本からアメリカやヨーロッパに向けたベクトルで語られることが多いテーマだろう。 本特集ではそこに南米が加わっていることが新鮮である。ブラジル社会における日系アーティストの活躍や、日本に住むブラジル出身者の「デカセギ文学」など、これまで私の知らなかった世界を見せてくれた。 ただ、日本人にとって「境界」を越えたすぐそこにあるのはアジアである。とりわけ中国について語ってみることは今日的な課題であるし、21世紀の日本の芸術がどこに向かうのかを考える上でも避けては通れないだろう。 ■YMOから映画音楽へ 1970年代にものごころつき、80年代に青春を過ごした私のような世代にとって、坂本龍一といえばYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)で活躍していた頃のイメージが強い。 論文には恥ずかしくて書かなかったが、中学校の体育の授業で女子だけの「創作ダンス」に取り組んだ時、私はYMOの「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」を選曲し、先頭に立って振り付けを行なった。 何の曲を使うかは自由だったが、半数以上のグループが「ライディーン」などYMOのヒット曲を選んだ。1980年代初頭の日本でいかにYMOが流行っていたかの証である。 その後坂本は映画『ラストエンペラー』(1987年公開)の音楽を担当し、日本人として初のアカデミー賞作曲賞を受賞した。 テクノポップのスターだった坂本が、どのような経緯で世界的な映画に関わるようになったのか、当時は詳しく知らなかった。ただ二胡の音色が印象的な「ラストエンペラーのテーマ」は、どこでもよく耳にした。 映画公開後40年近く経った今でも、この曲は中国関係のテレビ番組のBGMとして流れることがある。二胡の音色を、中国のイメージを喚起するものとして日本人の間に定着させたのは、坂本の功績であろう。 ■中国音楽が嫌いだった坂本龍一 『ラストエンペラー』での成功のおかげで、坂本は中国音楽に通暁した人と思われているし、中国人の坂本に対する親しみもそれが一因になっている。 ところが坂本の自伝『音楽は自由にする』によれば、『ラストエンペラー』の作曲を依頼されるまで、坂本は「中国の音楽というものはあまり好きになれず、中国風の音楽は書いたことがないし、ほとんど聴いたことすらなかった」。 東京芸術大学在学中に小泉文夫の民族音楽学に傾倒し、世界の楽器の音色に触れてきた坂本であるが、ここまで断言するのはよほど相性が悪かったのだろうか。 ふと疑問に思うのは、それ以前にYMOとして作曲した「東風(Tong Poo)」のような楽曲は、坂本にとって「中国風」ではなかったのだろうか、ということだ。 実は坂本は別のところで、「東風」が中国の曲を「下敷きにして」作られたものであることを明かしている。中国の熱心なファンの間では元歌探しも行なわれ、ほぼ特定されている。 おそらく電子的にさまざまなアレンジを加える過程で、それが中国に由来したものであるとの意識は坂本から抜け落ちた。結果的に東洋的ではあるが、無国籍の音楽ができあがったのだろう。