MMAと塩ちゃんことアナタ ― いつだって163センチ50キロ、高橋里枝のハチャメチャ格闘技人生〔4/5〕
履歴書に記されることのない、肉体に刻まれた記憶をたどる《身体と私》。当シリーズでは、スポーツはもちろんのと、わたしたちの人生に欠かせない身体の履歴を〈私〉の悲喜交々とともに回顧し、学歴、職歴、資格や免許の有無からは知り得ない生身の〈私〉を紐解く。
プロレスラーからMMAへ
そんなこんなで、泣きながら親元に帰りました。24歳です。せっかく格闘技で食えるかもしれなかったのに、急性硬膜下血腫の後は、ペンも持てなくなっていました。でも、地道にリハビリに励んだら、だんだん元気になって、そのうちに走ったりすることもできるようになって。だから、またやるぞ。 でも、全女以外の団体を調べても、頭をやっちゃうと入れてもらえないんです。そんなときに、TAKAみちのくさんのKAIENTAI DOJOが日本でもジムを開くことになって、話に行ったら、TAKAさんが入れてくれたんです。このときはまだ、総合格闘家は目指していなくて、あくまでプロレスラーとしてのデビューが目標でした。 ちょうど、その頃にスマックガールという女子格闘技のイベントが始まりましたTAKAさんが「プロレスラーを出したい」と言い始めて「お前、戦えるだろ」って。私、プロレスラーとしてはデビュー前なんですけどね。KAIENTAI DOJOで半年ぐらい練習しただけだし。 でも「大丈夫、大丈夫、ちょっと行ってこい」みたいな感じで、無理やり出場させられて、それが2002年ですね。たまたま、相手の選手に恵まれて、そこでは勝ったんですけど。ファイトマネーは、たしか1万円とか。それじゃあ食えないので、キャバクラでバイトして。けっこう稼ぎましたけど、KAIENTAI DOJOも寮生活だったので、すぐにバレて、「キャバクラはやめろ」と怒られました。
コンソメちゃんこ
KAIENTAI DOJOの寮は、楽しかったです。当番制で、三食ちゃんこ。味噌、塩、醤油味のローテーションだったので、私がコンソメ味を作ったりすると、皆に喜ばれて。でも半年もしないうちに、練習で頭を打って、黄色い鼻血が止まらなくなりました。で、また「やめろ」です。 レフェリーか売店をやれって言われたんですけど、試合に出たかったので、フリーの格闘家としてパラエストラ松戸で練習させてもらうことにしました。いわゆるMMA系統の寝技をしっかり習ったのは、このときが初めてです。 全女も1年でダメだし、KAIENTAI DOJOもダメなので、なんか負のイメージ強いなあって悩んで、スマックガールの人に相談したら「じゃあ、覆面レスラーやってよ」となって。 それからは、覆面でけっこう試合しましたね。弱かったですけどね。名前は、15(いちご)です。べつに苺好きじゃないんですけどね。スマックガールの代表の人が付けました。 結局、総合でも大した戦績は残せなかったです。でも、空手もプロレスも中途半端だったので、とりあえずやり切りたいと思って、15時代には体重差とかも気にせず、来た試合を受けていました。 そうしたら、たまたま、ちょっと強い子に勝つことができたんです。その試合を見ていた山田武士さん(ボクシングジム・JBスポーツのチーフトレーナーでありながら、総合格闘家の川尻達也なども指導した)から、合同練習会に誘っていただきました。後のチーム黒船です。そこで練習を積むうちに、ようやく、ちょっとは強くなってきたかな。