富士山と宗教(7)幕府による禁令、神道国教化政策。江戸民衆信仰のその後
神道国教化政策で「淫祠・邪教」に
獨協大学特任教授の城崎陽子氏が著した「富士に祈る」(ふこく出版)は、富士信仰について、その成立から歴史、行事までを詳しく解説した書籍だ。同書では明治期以降の富士信仰、富士講の展開についても解説している。「明治政府は、『大教宣布』から始まる神道国教化政策に乗らない宗教を『淫祠・邪教』として禁じました。富士講も『淫祠・邪教』の一派と見なされ、すみやかに棄教するように指導されたのです」と城崎氏。明治政府は、明治3(1870)年に大教宣布の詔を発し神道国教化政策に乗り出した。神道国教化政策について「富士に祈る」は次のように記している。 「神道国教化政策は国家神道による一種の宗教統制である。宮中祭祀と伊勢神宮を頂点とし、その下に各地の官国幣社を位置付け、村々に鎮座する産土社を底辺に組み込んで行われた神社祭祀の体系化は日本人の宗教観を一変させるものであった」(「第三章 富士信仰の展開」より) 江戸庶民の大衆信仰であった富士講は明治政府からは邪教とみなされ、明治初期には富士講のリーダー、先達がたびたび逮捕される事件が起きたようだ。江戸後期から今日まで続く富士信仰の系譜には、いくつかの系統があるが、いずれの系統も時代の変遷をそれぞれの形で乗り越えて今日に至っている。その系統の中でも身禄派の流れをくむ系譜として前回紹介した神道扶桑教がある。神道扶桑教は、明治7(1874)年に宍野半(ししの・なかば)によって設立された「富士一山講社」に始まる。その名称からは富士講の1つの講社と考えられるが、設立した宍野半は明治政府側の人間であった。
教派神道から宗教法人へ
「富士に祈る」などによれば、宍野半は弘化元(1844)年、薩摩郡隈之城村(現在の鹿児島県薩摩川内市隈之城町)生まれ。京都で平田鉄胤の門下として国学と神道を学んだ後、明治政府の宗教政策を担う教部省の役人となり、現在の静岡県富士宮市富士山本宮浅間大社に宮司として任官、あわせて周辺の神社社司を兼務した。宍野半は、存亡の危機にあった富士信仰の庇護を願う御師らの訴えを聞き、富士講の受け皿となる組織として富士一山講社を設立したのだ。宍野半のもとに、当時、大きな勢力を有していた丸山講をはじめとした富士講が結集し、富士一山講社はその後、明治15(1882)年に神道扶桑教として政府が公認した教派神道十三派の1つとなった。教派神道十三派の中には開祖を角行とし不二道を唱える実行教も含まれている。 神道扶桑教、実行教は戦後、宗教法人となり、現在に至っている。また、今日、活動を続けている富士講の流れをくむ富士信仰の宗教法人として他に丸山教、光清派の流れをくむ冨士教がある。江戸後期に隆盛を誇った富士信仰そして富士講は、明治政府による宗教統治の歴史を経て、戦後に設立された数多の宗教法人の1つとして今日もその教義と文化の継承が続いている。