2度の降板事件、’13年の伝説の舞台、出会いと別れ…「宮沢りえとリベンジ」に関するエトセトラ
リベンジをはたした宮沢りえ
筆者が「リベンジ」(Revenge)なる英単語を初めて耳にしたのは、大人気だった立ち技格闘技「K‐1」のイベントタイトル「K‐1REVENGE」が行われた’94年9月まで遡らねばならない。このとき、筆者はこの外来語が「復讐」「仕返し」を意味することを知った。 【画像】か、輝いている!…貴花田との婚約会見で見せた宮沢りえの弾ける笑顔 後ろ暗い単語が広く用いられるきっかけとなったのは5年後、西武ライオンズのルーキー・松坂大輔が口にしたことに起因する。千葉ロッテのエース・ジョニー黒木と投げ合い、2‐0で惜しくも競り負けた18歳の怪物は「必ずリベンジします」と宣言。6日後の千葉ロッテ戦で再びジョニーと相見えると、ロッテ打線を捻じ伏せ、1‐0のプロ初完封、公言通りリベンジしてみせた。 これが契機となって、「リベンジ」は一般的となり、スポーツや格闘技のみならず、日常生活においてもポップに頻用されるようになった。”リベンジの生みの親”とも言うべき松坂大輔は、この年の流行語大賞を受賞している。 近年においてはさらに脚色され「過去の自分に対して決着をつける」「仕切り直す」という意味においても口の端に上るようになった。ネガティブに解釈されていた単語が実態に引きずられ、前向きに捉えられるようになった一例である。同時に、11年前の舞台公演にまつわる椿事まで脳裏に甦るのはどうしたものか。 ’13年4月9日~’13年5月12日まで、池袋西口の東京芸術劇場で上演された三谷幸喜脚本・演出の『おのれナポレオン』は“三谷流ナポレオン死の真相”とも言うべき珠玉の密室劇である。主人公のナポレオンを野田秀樹、その愛人・アルヴィーヌを天海祐希、側近のモントロン伯爵を山本耕史、流刑地を治めるハドソン総督を内野聖陽、主治医のアントンマルキ医師を今井朋彦、臣僕のマルシャンを浅利陽介という、少数ながら豪華な布陣で、前売券は軒並みソールドアウト。三谷作品をこよなく愛する筆者も、どうにかこうにかリザーブ出来た。緊張と諧謔(かいぎゃく)の贅沢な2時間半だったことは記憶に新しい。 豪華船団のような1ヵ月公演も残り5日となった5月6日に異変が起きようとは、誰も想像できなかったはずだ。終演後、身体のだるさを訴えたヒロインの天海祐希がかかりつけの病院に行くと「軽度の心筋梗塞で1週間の安静が必要」と診断され、そのまま降板がしてしまったのである。8日のソワレ(夜公演)まで中止となったことで、自然消滅的に上演終了かと思われたのも無理はない。 しかし、作・演出を手掛けた三谷幸喜も、東京芸術劇場も、驚くことに、ここから代役を立てることを決める。そして、それを引き受けたのが宮沢りえだったから誰もが驚いた。とはいえ、2時間半の長尺の舞台に、膨大な台詞。稽古の日程も限られている。それらを短期間で身体に叩き込まねばならない。 どう見ても無謀な挑戦に思えたが、心配は杞憂に終わる。5月10日のソワレに現れた彼女は、2時間半出ずっぱりの舞台をノーミスで完走、130に及ぶ台詞も完璧にこなし、そのまま12日の千秋楽まで平然と乗り切った。 《舞台の神様が、りえに舞い降りたとしか思えない》と日刊スポーツ(’13年5月11日付)は書き、当時、筆者が構成作家として担当していた『5時に夢中!』(東京MX)月曜コメンテーターのマツコ・デラックスも、嘆息交じりに激賞していたことを、割合鮮明に憶えている。 では、なぜ、宮沢りえはムチャぶりを引き受け、かくもやり遂げたのか。勝算はあったのか。やらねばならない深い事情でもあったのか。彼女の履歴をなぞりながら、改めて真意を探ってみたい。 宮沢りえは’73年東京都に生まれた。11歳からモデルとして活動を始め、中2だった’87年「三井のリハウス」のCMで注目を集める。翌年、映画『ぼくたちの七日間戦争』で主演に抜擢されると一躍ブレイク。ドラマ、バラエティと八面六臂の大活躍、’89年には小室哲哉プロデュース『ドリームラッシュ』で歌手デビュー、’90年にはNHK紅白歌合戦に初出場、’91年には『Santa Fe』でヘアヌードを披露し日本中を仰天させるなど、文字通り、社会現象を巻き起こす存在となった。 活躍は永劫続くかに思われたが、意外なところで躓いた。’92年の晩秋から’93年1月にかけて日本列島を駆け巡った関脇・貴花田(のち横綱・貴乃花)との婚約会見~破棄騒動である。これ以降、人気はぴたりと止み、挙句に「激やせ」など心身の不調まで伝えられるようになる。さらに、’95年には追い打ちをかけるような、2つのトラブルに見舞われるのである。 ◆2つの降板事件 ’92年3月から1年間、毎日新聞で連載された宮尾登美子の小説『藏』が映画化されることが決まった。大正期の新潟の酒造家を舞台に、失明にめげず、女性として初めて蔵元となる主人公・烈(れつ)の生涯を描いた大作で、その映画版で烈の役を宮沢りえが演じるとなれば、話題を集めて集客にもつながるし、りえ側にとっても「宮沢りえ完全復活」の機運が高まるしで、「三方よし」となるはずだった。りえ本人にもその自覚はあったらしく「私の代表作にしたい」と制作発表の席上でコメントするなど“キャラ変”に積極的な様子が窺えた。 しかし、ここで不可解なことが起こる。配給元の東映は、宮沢りえではなく、叔母役の浅野ゆう子を主演に想定していたのだ。「小説では烈が主人公だが、映画では準主役」という不可解な扱いに宮沢りえ、というより、代理人である母親の宮沢光子は猛然と抗議。東映と連日話し合いを重ねたが平行線を辿り、結局、クランクイン6日前に、宮沢りえの降板が決まった。 29年経った今、改めてこの出来事を眺めると、宮沢側の言い分こそもっともな気もする。何せ原作では主役である。映画にあたっても主演と考えるのは当然で、序列の問題は存外センシティブな問題を孕むことも踏まえ、大いに同情すべきと思ったものである。しかし、驚くことに、世間の批判は降板した宮沢母子に集中した。’99年に目黒区議会議員となる芸能リポーターの須藤甚一郎はこう言ってのけた。 「二流の役者ほどセリフの数を勘定するもの。これまではりえママの高飛車商法が通用してきたけど、今回ばかりは裏目に出ました。(中略)りえは今後、アダルトビデオの仕事しかないんじゃないですか」(『週刊ポスト』’95年2月24日号) 余談になるが、降板した宮沢りえに代わって、烈を演じたのが、当時、新人だった一色紗英である。 映画降板騒動で痛手を負った宮沢りえだが、同年の暮れ、今度は舞台公演で降板沙汰を起こしてしまう。舞台『コヨーテ』で特殊な能力を持つ少女を演じることが決まっていたが「演出の不安が拭えない」といった理由で降りてしまうのだ。このときは、宮沢りえ個人の問題だけでなく、演出と振付師の対立に巻き込まれた側面もあったが、マスコミはそこには目もくれず、宮沢母子をこれでもかと叩いた。要するに、母子に対するバッシングの真っ只中だったのである。 これ以降、宮沢りえの姿がテレビの画面に映る機会は激減した。ワイドショーで報じられるのは、かつてのような華やいだニュースではなく、大半が体調不良か交際報道となった。「AV転向」は根も葉もない噂に違いないが、須藤甚一郎に限らずまことしやかに伝えられ、’90年代はずっと付いて回った。 しかし、宮沢りえは死ななかった。21世紀に入ると、才能が開花するのである。 ’01年香港映画『華の愛~遊園驚夢』で、モスクワ国際映画祭・最優秀主演女優賞を受賞したのを皮切りに、『たそがれ清兵衛』(’02年)で日本アカデミー賞・最優秀主演女優賞、『父と暮せば』(’04年)でブルーリボン賞主演女優賞。『透明人間の蒸気』(’04年)で読売演劇大賞最優秀女優賞、『ロープ』(’06年)で紀伊国屋演劇賞、『人形の家』(’08年)で二度目の読売演劇大賞最優秀女優賞……。かつて、ドラマ『スワンの涙』(フジテレビ)で、台詞をたどたどしく読んでいた姿はそこにはなく、映画と舞台を主戦場とする、正真正銘の女優として着実に実績を積み上げていく姿があった。 そして、’13年度の代役である。 ロングラン公演の最終盤になって無念の降板を決めた天海祐希の代役に、宮沢りえを推したのは主演の野田秀樹だったという。幾度かの共演で、彼女の技量を推し量った野田が「宮沢りえなら案外やれるんじゃないか」と踏んだことは想像に難くない。野田秀樹に「やらないか」と誘われた彼女の脳裏に去来したのが、’95年の2度の降板騒動という苦い記憶だったとすれば「いっちょ、やってみっか」と思ったとしても不思議はない。リベンジの機会としてこれほど恰好のタイミングはないからだ。 これ以降の宮沢りえの動きは迅速である。天海祐希が降板を発表した8日未明には、主催者から脚本を受け取り、ここから徹夜で台詞を叩きこみ、9日午前11時に秋以降の舞台の制作発表に出席したのちは、10日未明まで通し稽古。本読みと稽古を併せて僅か25時間。これで、10日のソワレに登場したのだから、日刊スポーツでなくても神懸っていたと言うほかない。 《そしてカーテンコール。休憩なしの2時間20分の舞台をやり遂げたりえを、立ち見も出た満員の観客は総立ちの拍手でねぎらった。(中略)女優として評価を上げ続けるりえにとって、今回の代役はリスクの高い賭けだった。好奇の視線も浴びたこの日の舞台は、確かに伝説の一夜となった》(『日刊スポーツ』’13年5月11日付) ジェンダーレスの観点から「女優」という言葉が用いられなくなりつつある昨今、女性歌手を「diva」(歌姫)と呼んでリスペクトするように、「女優」も尊称と定義する筆者は、宮沢りえには、杉村春子、原節子、乙羽信子らの系譜に列なる存在として、生涯「女優」の肩書を背負ってほしいと、切に願う次第である。(敬称略) 取材・文:細田昌志 ノンフィクション作家。1971年生まれ。近著『沢村忠に真空を飛ばせた男/昭和のプロモーター・野口修評伝』(新潮社)が第43回講談社本田靖春ノンフィクション賞を受賞。昨年末には『力道山未亡人』が第30回小学館ノンフィクション大賞を受賞。
FRIDAYデジタル