多摩の首都・立川発展に“メ~いっぱい”貢献。7月2日、ヤギさん慰労送別会
7月2日、東京の立川駅北口から徒歩数分にある空き地で、“ヤギさんの送別会”が開催されます。この空き地は、立川駅を発着する多摩都市モノレール線高架下の遊歩道に面しており、周囲は商業施設やオフィスビルに囲まれています。また、平日・休日を問わず、多くの人出でにぎわいます。 繁華街の風景が広がる立川駅から至近の場所で、なぜヤギの送別会が実施されるのでしょうか?
高層ビルの隙間の空き地で飼われるヤギ10匹
JR新宿駅から中央線で20分弱。東京・立川市はベッドタウンとして発展してきました。現在の人口は約18万人。人口規模では同じ多摩の八王子市や町田市に及びませんが、街のにぎわいはそれらを上回るものがあります。最近では、八王子市や町田市を凌ぐ発展ぶりから、“多摩の首都”と呼ばれることもあります。 立川駅は中央線のほかに南武線や青梅線、多摩モノレールが走る交通の要衝地でもあり、その利便性から駅界隈は著しく発展を遂げたのです。 にぎわう立川駅から北に歩くこと数分。高層ビルの隙間に、いきなり空き地が現れます。驚くことに、その空き地では10匹のヤギが飼育されているのです。 「ヤギが飼われている一画は2015年まで国有地で、今はみどり地区と通称されている空地(くうち)です。空地とは開発の準備段階で建物などが建っていない段階の土地のことで、みどり地区には商業施設やホテル、文化ホールといった複合施設が建てられる予定になっています」と話すのは、立川駅北側一帯で都市開発事業を手掛ける立飛ホールディングス地域貢献推進室の担当者です。
敗戦で大きく運命が変わった立川飛行機
立飛ホールディングスの前身である石川島飛行機製作所は、1924(大正13)年に東京・中央区で設立されました。1936(昭和11)年に立川に移転し、立川飛行と改称しています。戦前期、立川を含む多摩一円は陸軍の航空関連施設や民間の飛行機製造工場が集積していました。立川飛行機も立川の航空産業を支えていたメーカーの一社です。 飛行機製造を手掛けていた立川飛行機ですが、敗戦で大きく運命が変わります。GHQ(連合国軍総司令部)は日本に対して、軍用機はおろか民間航空機の製造・所有、飛行を禁じたのです。 また、立川飛行場も接収されました。戦前期、立川飛行場の一部は立飛が陸軍に貸していた土地でした。戦後、アメリカ軍は立川飛行場を接収しますが、アメリカ軍は立飛の土地も国有地だと誤認して接収してしまいました。 こうした事態に直面し、立川飛行機は会社をいったん解散。1949(同24)年に、不動産事業を核とする立飛企業と、鈑金製品の製造・販売を主業務とする新立川航空機とに分離して再出発します。 工場地をアメリカ軍に接収された状態は長らく続きましたが、1973(同48)年には南地区と呼ばれる一画が返還。1976年には、東地区と西地区が返還されました。