奇跡の40歳! バレリーナに憧れた愛川ゆず季が、“元祖グラレスラー”になるまで
グラビアアイドルとして青年誌の表紙を飾り、女子プロレスラーとしても“グラレスラー”なる新語を生み出すほどの活躍を見せた愛川ゆず季さん。結婚と出産を経験した2022年には「ベスト・ボディ・ジャパン」でグランプリを獲得、“奇跡の40歳”として我々の前に帰って来た。そのジェットコースターのような半生を、前後編にわけて振り返る。 【写真7点】奇跡の40歳!愛川ゆず季
ロシアで経験したクラシックバレエの挫折
──愛媛県のご出身だとうかがっていますが、幼少期の思い出で一番心に残っていることはありますか? 子どもの頃は、習いごとで1週間の予定が埋まっていました。月曜日の習字に始まり、クラシックバレエをやってピアノを習って、スイミングに通ってから塾に行ってという具合で。 母親は、子どもの頃に経済的な理由でやりたかったことができなかったそうで、私が長女だったこともあって、いろいろやらせてくれたみたいです。ただ、やはり好きじゃないと続かないので、クラシックバレエ以外は苦痛でしたね。 ──ご実家はどのような家庭でしたか? 父親は、柚子などを扱う食品加工会社を営んでいました。実は“ゆず季”という名は本名で、“花ゆずき”という商品から私の名前をとったそうです。 私は厳しく育てられたんですが、そこで両親は疲れ果てたみたいで(笑)。妹は自由に育てられていました。 ──多くの習いごとを経験したなかでも、クラシックバレエはずっと続けていたんですね。 田舎だったので、コンクールに出ることはほとんどなかったんですが、バレエ教室ではセンターやソロで踊らせてもらっていました。昔からバレリーナになるのが夢で、中学2年生の時にはロシアに留学させてもらって、向こうで公演に出られたこともありました。 ただ、ロシアのバレリーナを見ていて、骨の作りから身体が違うな、どんなに頑張ってもこの人たちには勝つことはできないな、と思っちゃって。それでバレリーナになる夢は諦めました。でも、それまでバレエのことしか考えていなかったので、大いに絶望しましたし、人生で最初の挫折でした。 ──挫折して、次の目標は見つかりましたか? それが全然見つからなくて。それまでの厳しい食事制限の反動で、コンビニに行ってプリンやゼリーを買って食べることが楽しみになっていました。 あと、バレエをやっていた時は、お友だちと遊びに出かける機会もなかったので、高校時代は友だちと遊ぶことが楽しくて。一種の“反抗期”だったのかもしれませんね。